西郷四郎

西郷四郎(左)と会津藩家老だった西郷頼母/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

満身創痍の会津藩に生まれた西郷四郎~軍人の夢敗れて伝説の柔道家に

日本の柔道界のレジェンドといえば、嘉納治五郎が有名です。

その門下に、彼しか使えないという幻の技を使いこなす、一人の男がいました。

西郷四郎――。

講道館四天王の一人でもあり、彗星の如く日本柔道界に現れたレジェンド。

大正11年(1922年)12月22日が命日である彼は、一体どのような人物だったのか?

その生涯を辿ってみましょう。

 

敗戦の会津に生まれた西郷四郎

慶応4年(1868)、会津若松城下。

会津戦争の最中、悲劇が起こりました。

会津藩家老・西郷頼母(たのも・近悳)の家で、頼母の老母にはじまり、妻、妹、幼い娘までもが、懐剣を握って自害を遂げたのです。

西軍の将は、血の海となった西郷邸に踏み込み、あまりのことに言葉を失いました。

そのとき、15才ほどの娘が、息も絶え絶えになりながらこう言いました。

「お味方ですか? ならば介錯を……」

西軍の将は涙をこらえながら、娘にとどめを刺したと伝わります。

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落城後、西郷頼母の元に残された家族は、幼い一人息子だけ。

西郷家にとって最後の子となった彼も、夭折してしまいます。

この西郷家に、後に養子として入る“少年”は、会津戦争の二年前に生誕しました。

 

猫の動きを真似するほどに俊敏

会津戦争において、藩士の志田貞二郎は【朱雀隊士】として越後口に出兵。

志田一家は斗南藩には移住せず、戦火で荒れ果てた会津若松を離れ、津川町に移住しました。

この町は現在新潟県にありますが、元は会津藩領です。

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志田一家には、小柄ながらも気が強く活発な少年・四郎がいました。

のちの西郷四郎です。

彼は、家の仕事を手伝う合間に、妙なことをやり始めました。

猫というのは実に俊敏な動物です。

高い所から落ちても、空中でクルリと一回転して、見事に着地します。

ただしあまりに高い所から落とすと怪我をしますし、低すぎても回転が間に合わずこれまた怪我をします(実際に投げ落とす実験は絶対にしないでくださいね)。

西郷四郎/wikipediaより引用

そんな猫の真似を、四郎はやり始めたのです。

高いところから飛び降り、クルリと回って飛び降りる「猫の三寸返り」と呼ばれる動作。

ジャッキー・チェンが映画でやるような動きですな。

もっともこの猫の真似は伝説的なもので、史実かどうかはあやしいとされています。

この猫のように俊敏な17才の四郎は、明治15年(1882年)、友人のつてを頼って上京しました。

 

講道館に現れた謎の少年

友人に頼って上京した四郎。あまりに突発的な行動をするため、周囲も困惑しました。

このとき、四郎には大きな目的がありました。

「俺は“イクグン大将”になる!」

陸軍大将のこと。言葉が訛って「イクグン」に聞こえていたのでした。

当時の会津藩は、賊軍の首魁とみなされており、政界での出世ルートは閉ざされています。

出世しようと思えば、山川健次郎のような学者としてのルートか、山川浩柴五郎のような軍人ルートしかありません。

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四郎は後者をめざしていたのです。

しかし、四郎はあまりに小柄。身長が五尺(153センチ)しかなく、どうしても士官学校には合格できません。

夢やぶれた四郎は、薄汚い格好でボサボサ頭のまま、ある日、講道館の門を叩きました。

応対に出た門人は、小柄な薄汚い子供がいるのを見て尋ねます。

「きみは一体何者だね」

「スナスロウ」

「えっ?」

「スナスロウ!」

志田四郎が訛ってそう聞こえたのでした。

 

講道館四天王に

講道館――。

それは、柔道館のレジェンドこと嘉納治五郎が、当時始めたばかりの柔道場でした。

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嘉納治五郎というのは日本の近代スポーツ界の巨人であり、日本初のオリンピック選手・金栗四三を見いだした人。

大河ドラマ『いだてん』では、三島弥彦田畑政治らと共に主役を張る人物ですね。

18才で柔術を学び、才能と努力のかいもあって、名人となります。そして若くして、講道館を始めたのでした。

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その講道館、七人目の入門者が、この薄汚い子供でした。

四郎は入門に際して印鑑ではなく、血判を推しました。

印鑑すら持たない子供だったのですから、応対した側も戸惑ったと思います。

なんせ訛りも強い。

意思の疎通には筆談が必要だったほどです。

しかしこの小柄な少年、いざ柔術の稽古を初めてみると、身体能力のすさまじさがあらわになりました。

床に指がねばりつくような脚さばきは、まるで蛸。

幼い頃、船の上で仕事をしていて身につけた動作とされています。

小柄で敏捷な様子は、まさに猫。

相手から投げられてもくるりと回転して、そのままかわしてしまうことすらありました。

治五郎と四郎が二人きりで、寒い早朝でも稽古に励むこともよくありました。

入門したてでありながら、負けん気の強さで厳しい特訓にもついていったのです。

まさかあの、酷い訛りで何を話しているかもわからないような少年が、これほどまでに天性の逸材であったとは……。

治五郎の教えのもとその才能を開花した四郎は、いつしか「講道館四天王」のひとりに数えられるようになるのです。

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