岩倉使節団

岩倉使節団/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

実はトラブル続きで非難された岩倉使節団 1年10ヶ月の視察で成果は?

幕末から明治維新後にかけて派遣された各種の使節団。

その中で最も有名なのが【岩倉使節団】であり、1871年12月23日に日本を出発しました。

岩倉のほかに大久保利通木戸孝允といった新政府の要人が欧米諸国を見聞するというもので、概要はざっと以下の通りです。

◆総勢107名

◆1年10ヶ月(1871年12月~1873年9月)

◆欧米12カ国(米・英・仏・ベルギー・蘭・独・露・デンマーク・スウェーデン・伊・オーストリア・スイス)

【著名なメンバー】
・木戸孝允
・大久保利通
・伊藤博文
・村田新八
・由利公正
・武者小路実世(武者小路実篤の父)
・中江兆民
・津田梅子
・山川捨松
・牧野伸顕(大久保利通の息子)

滞在期間もハンパじゃなければ、参加メンバーも名だたる人たちばかり。

彼らの見聞が文明開化に大きな影響を与えたのは言うまでもありませんが、その一方で実はこの使節団、かなりトホホな現実もありました。

ザッと挙げてみましょう。

・いくら何でも期間が長すぎた(国政停滞)

・やるはずがなかった条約改正のようなことに手を出し、アメリカからその手続きのために一時帰国する羽目に陥る

・銀行詐欺に騙され、大金をだまし取られる

西南戦争はじめ、政権を揺るがす事件に繋がった側面を持つ

・「西洋を真似したらいいってもんじゃねえだろ」派が反発

・同行していた女子留学生は、その後、政府からのフォローが無く、詰みそうになる

とまぁ、実は当時から

「政権中枢まで海外までお使いとか、あまりに非常識でしょ」

と散々叩かれておりました。

今回は、そんなトホホな部分も含め、岩倉使節団を見ていきたいと思います。

 


「アラビア馬」調子に乗る

明治維新政府は一枚岩ではない――。

というのは幕末ファンにとって当たり前なことですが、一般的にはあまり知られていません。

ただ、ちょっと考えればわかると思います。

主力になった薩長土肥は、風土が異なりゃ育ちも違う。

さらには異界の公卿(貴族)も含まれるのですから、出身階級もバラバラなわけです。

それでも大きく分ければ次のような2通りになりました。

◆「東洋型道徳心(儒教精神等)」と「西洋の文明や技術」を組み合わせるべきだよ派(西郷隆盛・大久保利通たち)

◆東洋的な道徳とか別にいらんから、西洋を真似すればいいんだよ派(大隈重信井上馨たち)

岩倉使節団のメンバーでも

「西洋式に従うなんてやってられん」

と、西洋流マナーを無視して、船内で食事をわしづかみにする人もいたというぐらいです。

さて、この両者ですが、生活様式も異なりました。

前者が質素な生活を心がけたのに対し、後者は調子に乗っていたといいますか。かなり贅沢をしていました。

こうした西洋を真似て贅沢三昧するイケイケの者は「アラビア馬」と陰口を叩かれたほどです。

後の世の勝敗を書きますと、前者はだいたい非命に倒れ、志半ばで死去。

後者のルールが、明治の世を支配します。

だからこそ、西洋からは「日本ってただの猿真似だ」と馬鹿にされ、日本国内でも「軽薄だ」と批判され、アジア諸国からは「なんで東洋的な道徳捨てるの? ガッカリだよ」と突っ込まれることになるのです。

この「アラビア馬」勝利に、岩倉使節団が関わっていないこともありません。

一応、開明派の領袖は木戸孝允であり、彼ですら若手の「アラビア馬」官僚には危機感を抱いていたほどです。

実はこの使節団、リーダーこそ岩倉ですが、そもそもの発案は「アラビア馬」トップの大隈重信だったとか。

大隈重信
生粋の武士だった大隈重信は右脚失いながら政治と早稲田85年の生涯

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西郷隆盛のように東洋的「尭舜の仁政」(中国古代の伝説的名君の統治)を目指す政治家から見ると、この使節団自体が胡散臭いことこの上ない存在。

ゆえに使節団の権限を縛って派遣したのですが、その気遣いすら後になって裏切られます。

そんな対立構造が、使節団の背景にありました。

 


アメリカでトンボ返りはヘタすりゃ切腹

問題を含んでいた使節団の歩みを見ていきましょう。

まずは、アメリカに上陸します。

やはりこの使節団、惜しいところはありまして、日本人と同じアジア系であるアメリカ先住民への扱いに、憤りを感じていたようです。

先にこの国に住んでいた人々を、武力で追いやり迫害するやり方に、憤りを感じた者もいたようです。

ただ、そのことを自国の先住民に発揮していないのがどうにも矛盾というか。

北海道や沖縄の人々は、原住民を一段下のものとみなす政策に苦しめられています。使節団は「弱肉強食」の負の面だけは学んでしまったようです。

そして熱烈歓迎を受けたワシントンで、やらかしてしまいます。

その背後にいたのが、駐米日本代表の森有礼(もり ありのり)と、駐日公使のデ・ロングでした。

優秀な森とはいえ、当時まだ26歳。

野心家のデ・ロングからすれば、若い日本人留学生など、掌で操れたことでしょう。

森有礼(1871年)/wikipediaより引用

一発当てて、中央政界にドカンと進出したい――そんなデ・ロングの考えた案が、今まさにアメリカまでやって来た岩倉使節団と条約改正をすることでした。

使節団も脇が甘いもので「大歓迎されたし、それもいいかも」と思ってしまうのです。

しかし、それは大いなる間違い。

使節団は派遣前に「十二ヵ条の約定」を結んでいます。要するに政府を無視して政治を動かしてはいけないという約束です。

これには困りました。

条約交渉ができないということで、一旦帰国する羽目に陥ったのです。

日本国内では、当然ながら反発が強まります。

「勝手なことをするな!」

「トンボ返りってありえんだろ!」

「また滞在が長引くんじゃねーか!」

ついには岩倉と木戸が切腹するしかない……というところまで追い込まれたとか。

これを聞いた外務卿・副島種臣言葉が、スゴイです。

副島種臣/wikipediaより引用

「切腹の儀は、ご勝手になさるべし。あえてお進めもお留めもいたさず」

勝手に切腹すればエエやろ、進めないし止めないぜ……って、これが政府の見解か。

結局は

【さすがにあの二人を切腹させたらいかんでしょ】

となり、政府からも助っ人が派遣されてはおりますが、岩倉も木戸も「アラビア馬のせいで最悪の事態に」と愚痴るほど追い詰められております。そして……。

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