根っからの女好きで、半ば開き直るようだった渋沢栄一。
妻と妾の同居を実現すると、本人はこう口にしていました。
「明眸皓歯(めいぼうこうし/明るい目に白い歯・美女のこと)以外は恥じることはない」
四男・秀雄はこう振り返っています。
「色を好む程度に徳を好んだ父」
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そんな栄一を回想するのが大河ドラマ『青天を衝け』だとすれば、女性の美貌や色香を讃えるものが多くなるのは自然の流れ。
栄一が好んだとされる『論語』を引いてみますと、
女子と小人とは養い難し。
女性と徳のない人は扱いが難しい
『論語』「陽貨」
なんて言葉も確かにありますが、果たして普段の渋沢は女性をどんな風に見ていたのか?
本稿では、渋沢の女子教育に対する取り組みから、当人の女性観を振り返ってみたいと思います。
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東京女学館などの校長に
渋沢栄一が女子教育に貢献したのかどうか?
YesかNoで、と問われればYesです。
明治21年(1888年)に東京女学館、明治34年(1901年)には日本女子大学校に援助をし、両校の校長も務めました。
後者の日本女子大学校につきましては、別の大口出資者もいます。
『あさが来た』ヒロインのモデルとなった広岡浅子です。
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『青天を衝け』とは同じ脚本家が担当しており、ディーン・フジオカさんの五代様こと五代友厚も登場するなど、何かと話題になりました。
渋沢と五代の接点を考えると、あまりに無理のあるキャスティングなんですけどね。
ともかく、明治の世になって考えられた「女子教育」は、日本の進歩、近代化に伴い、女子の地位向上が目的でした。
しかし、現実はまるで違うものでした。
女子教育の建前と偏見
明治の女子教育には様々な流れがあります。
例えば2013年『八重の桜』を参考に見てみましょう。
会津時代から、女でありながら銃を習ってきたヒロインの新島八重。
彼女は気が強く、兄の覚馬はその知性に感服していました。母・佐久と「妹の賢さはたいしたものだ」と感じていたのです。
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そんな山本家の兄と妹は、京都でプロテスタントとして教育を実現したい新島襄と出会います。
襄は、アメリカで出会ったような、自発的で積極的な「ハンサム」な女性を求めていた。
それに八重が合致したため結婚に至りました。
一方、2015年『花燃ゆ』はどうか。
八重と異なり、吉田松陰の三妹・美和はそこまで自発性のある人物ではなく、ドラマでの描写にも苦闘の後がありました。
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あのドラマの見どころとして掲げられていたのは、ドレスを着て舞踏会で踊るヒロインの姿です。
ドラマの作り手がどこまで考えていたのかわかりませんが、皮肉にも【長州閥の考える、わきまえた女子養成教育】が描かれていたといえます。
実は、渋沢栄一と親しい長州閥の伊藤博文や井上馨は、女子教育に悩んでいました。
当時の上流階級である士族や華族の女性は、どうにも欧米のレディとは異なる。
パーティでの接客も嫌がるし、ましてやダンスなんてできるわけもない。
せっかく鹿鳴館という箱を作っても、そこに飾る花がないじゃないか!
そこで明治20年(1888年)、泥縄式にできた組織が「女子教育奨励会」でした。
『あさが来た』ですら、皮肉にもその流れに則っているとは言えます。あのドラマでヒロインは「おなごのやらかい心」が大事であるとスピーチしていました。
そして渋沢栄一にも、女性を「弱く柔らかい」と決めつける偏見があったとわかりますが、それは何も彼一人に限った話ではなく、明治政府の基本方針であり、影響は天皇にも及びました。
江戸時代、孝明天皇までは女性的な特徴がありました。薄化粧をするため女官の取次が必須です。
その天皇を男性的な象徴とし、西洋式軍服を着せ、馬に跨らせる――強い男性がいてこそ日本という国は成立するのだと、明治政府は考えたのです。
では女性は?
出産と育児だけをしていればいい。無能力で家庭の保護しかできない。そんな規定がされました。
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