パンダの歴史

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外交に翻弄されるパンダの歴史~日中友好50周年を機に振り返る

昨年の2月21日、つまり令和5年(2023年)2月21日、歴史に新たな1ページが刻まれました。

日本で生まれたジャイアントパンダのシャンシャンが中国へ帰ったのです。

嗚呼、悲しきことよ。

国内でそのまま次の子供たちを産んでくれたらいいのに……とは、ならないのにはもちろん理由があります。

日中友好の絆として、初めて彼らが上野公園に来てから2022年で50年が経過。

まだ歴史が浅く、存在を知られてからは人間の都合に振り回されているパンダの歴史を振り返ってみましょう。

 


中国のシンボルである動物とは?

中国のシンボルである動物とは何か?

この質問を昔の日本人にしてみれば、こんな答えが返ってくることでしょう。

龍だ!

いや、虎か!

龍は実在しませんが、虎は中国には生息しています。

人名にも頻出するし、干支でも使われ、竜のように強い。「虎のように大酒飲み」なんて慣用句もあるほどです。

戦国ファンなら『越後の龍』である上杉謙信と、『甲斐の虎』武田信玄はよく知られた存在でしょう。

美術品のモチーフとしても頻出する虎――日本人はその実物を見る機会がなく、猫をモデルにしたせいか目がおかしいという指摘もされてきましたが、いずれにせよメジャーな存在でしょう。

これは中国本土や韓国でもあてはまり、他の動物はあまり出てこない。

ましてやパンダなんて、漢詩に詠むことはないし、絵にも登場せず。

現代では「中国の動物=パンダ」という方程式が成り立つほどなのに、なぜ歴史的には存在感が薄かったのか?

その答えは地域にあります。

パンダが暮らしていたのは三国志で御馴染みの「蜀」、現四川省の山奥で暮らしている動物でした。

蜀は中国の政治中心地であった中原や、経済や文化的に発展を遂げた江南からも非常に遠い。

山奥なため、亡命政権でもなければ、わざわざそこに都を置こうとはしません。

こんな特徴的な言葉があります。

「蜀犬日に吠ゆ」

蜀は日照時間が極端に短いため、そこの犬は太陽を不審に思って吠える――そんな意味であり、「夜郎自大」と同じく、貶めるニュアンスもある言葉です。

※夜郎自大……中国西南地方の民族である「夜郎」が、「漢」の強大さを知らずに自分の力を自慢していた(ひいては「仲間内で威張ること」という意味に)

要は田舎モンってことですね。

四川省は訛りが強いことでも知られ、とにかく地方色が濃い。

そんな蜀の山奥にいたパンダが、歴史上で脇役だったのは自然なことでしょう。

過去の呼び方すら不明です。

20世紀に入って「熊猫」と定められるまで、「猫熊」とか「羆(ヒグマなど大型の熊)」あるいは「白熊」など複数の呼称があり、統一されていませんでした。

 


欧米のハンティングブームに火をつける

1896年――フランス人のダヴィッド神父が四川省の山奥を探検していると、地元の人から見慣れない「白と黒の毛皮」を見せられました。

彼らは驚きます。

「レッサーパンダに似ているじゃないか!」

現代からすると逆の感覚ですが、当時はレッサーパンダのほうが先に珍獣として人気を得ていて、ジャイアントパンダは後から認識されたのです。

しかしそれこそが不幸の始まりでした。

当時、流行していた欧米人のハンティングブームに火をつけてしまったのです。

産業革命が始まると、欧米の男たちは危機感を覚えました。

なんでもかんでも機械化されて、男らしさを失ってしまう。そうだ、狩猟で男らしさを取り戻そう――そんなマッチョイズムのもと、狩猟が流行したのです。

イギリス貴族やアメリカの富豪の屋敷に剥製がズラリと並ぶ様子をテレビや映画などでご覧になったことがおありでしょう。あれは狩猟ブームの名残だったのです。

野蛮な未開の地で珍獣を狩るとなれば心が躍る。

欧米人に発見されたパンダは、狩猟の獲物であり、無造作に射殺され、骨や皮を持ち帰ることがブームになってしまいました。

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