アラフォーとアラサーを分けるもの、それは1万円札と言って、福沢諭吉とともにこの人も思い浮かべるかどうか。
聖徳太子(厩戸皇子)は、仏教と平和を愛する聖人というイメージがあります。しかし、実は飛鳥王朝きっての対外強硬派でした。
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聖徳太子伝説のベールを一枚一枚はいでみる
聖徳太子にはスーパー偉人ならではの伝説がたくさんありますよね。
3歳で仏舎利(釈迦の骨)を握りしめてお祈りをしたとか、一度に10人の訴えを聞きわけて理解したなどのたぐいのあれです。
10人の話を本当に理解できたのかどうかは本人に聞かないと分からないので「ウソ」とは言い切れないのですが、少なくとも、仏舎利については15歳の時になって、百済から仏舎利が初めて日本に送られるという史実があるので、これはウソ伝説です。
20歳のときにおばで女帝の推古天皇が即位した際に「摂政」として大抜擢されました。
ところが「摂政」という名の役職が飛鳥時代の前期にあったかというと、まあなかったのでしょうけども、役職の呼び名はともかく、若い頃から政権の中枢に入るだけの才能と実力を持っていたことまで否定するのはどうかと思います。
「なぜ聖徳太子は天皇になれなかったのか?」の最終解答
本能寺の変の黒幕は誰か?坂本龍馬を暗殺したのは誰か?など日本史には定番の謎がいくつもありますが、
「なぜ聖徳太子は天皇になれなかったのか」もそんなメジャーな謎の一つでありました。
この問いの答えは、前回までの古代シリーズ連載を読んでいただいた人には簡単でしょう。
若すぎたからです。
天皇というと、現在のように長男への継承が当たり前と思いがちですが、古代においては「親から子」への縦への継承はむしろまれだったのです。
基本的には、兄弟など同世代間で横に継承していきました。
ある世代で皇位をまわしているうちに、次の世代が国を治めるにふさわしい年齢に育ってはじめて、縦の継承が起きるというのが大原則だったのです。
息子には譲らない古代の相続システム
推古天皇までの歴代天皇をみると、敏達天皇、用明天皇(聖徳太子の父)、崇峻天皇、推古と、4代続けてきょうだい間で皇位が継承されていたことがわかります。(前回)

恵美嘉樹著作より
その前の世代も、安閑(ラオウ)、宣化(トキ)、欽明(ケンシロウ)と兄弟でまわしていましたよね。(前々回)
なぜかというと、国のトップである天皇にはそれなりの経験が求められていたからです。
さらに、天皇という地位は一度ついたら死ぬまで決して誰にも譲られることはないという大原則があったからです。
(ちなみに、史上はじめて譲位したのは、これよりあと、7世紀中頃の女帝・皇極天皇=大化改新のクーデーターの時の天皇です)
つまり聖徳太子が天皇になるには、推古天皇よりも長生きしないと即位できる可能性はゼロだったわけです。
実際には、太子は622年に49歳で死に、推古は628年に75歳で亡くなっています。
女性は長生きだってことです。
中2で父を亡くす
「聖徳太子」という呼び方(尊称)と聖人君主的なイメージは、死後50年以上たってから作られたものということが最近の研究で分かっています。(最近時々話題になる「聖徳太子はいなかった」説はこのことを言っているのです)
では、後世に作られた伝説を一枚一枚はがしていくと、一体、どんな人物像が浮かび上がってくるのでしょうか。
聖徳太子は574年に生まれました。父は蘇我氏系の皇族でのちの用明天皇、母も蘇我氏の娘でした。お父さんが太子12歳のときに、蘇我系初の天皇として即位しました。しかしお父さんは天然痘にかかり、即位してわずか3年でこの世を去ってしまうのです。
photo by CLF
この時、聖徳太子は14歳。そう中2病にひたりたい繊細な時期に、血なまぐさい皇位継承争いに巻き込まれていくのです!
ただ、さきほど書いたように、当時は長子への相続ではなく兄弟間の皇位継承が優先でしたから、10代前半の太子は後継者レースに参加すらことはありません。
後ろ盾を早々に失った太子は、親戚の蘇我馬子の手ごまとして、14歳にして馬子のライバルだった物部守屋との戦いに駆り出されるのです。
この戦いについても前回少し触れましたが、もうちょっと詳しく説明します。
兵力差では、圧倒的に蘇我の有利で始まった戦いですが、背水の陣を敷く物部氏の反撃はすさまじく、蘇我軍は3度も押し返されました。
まだ中学生で学帽をかぶって、いや、子供の髪型をしていた聖徳太子は軍の後方にいたのですが、総崩れになった味方をみて四天王の木像を作り、「もし勝たせてくれたら、必ず四天王のための寺(大阪の四天王寺)を建立します」と、神頼みをしました。
photo by Mixtribe Photo
この逸話は、「いつもどんなときでも仏教に帰依する」太子の信仰の篤さを示すものとして知られています。「えらい人やな~」
ちょっとまってください。無神論大好きな現代人からすると、こう言いたくなりませんか?
「中坊がびびっただけじゃね?」
もともと信仰心があついのではなく、14歳の初陣で死を覚悟した少年時代の経験がトラウマとなって、仏教に傾倒したとも考えられるでしょう。
華々しい活躍をしたはずの中2は、忽然と歴史から姿を消すのです。
プレッシャーに負けて心の病に?
次に太子が歴史に登場するのは、20歳のとき。叔母の推古天皇が593年に即位したときに皇太子となり、天皇を補佐する摂政となったと日本書紀に書かれているという、それです。
このことをもって、聖徳太子は女帝の推古を越える事実上の政界ナンバー1だった、というのがかつての常識でした。
実際には、はたちになったし、彼も皇位継承者の有力候補者の一人と見てもいいかもねぇくらいの認識だったようです。それどころか、トラウマを持つ青年は、プレッシャーからでしょうか? どうもメンタルをやんだようです。
「聖徳太子が心の病なんて、日本書紀や女性セブンに載っているの?」
いいえ、さすがに載ってません。ただ、この頃に起きた出来事(事実)を当てはめていくと、メンタルの病気になったとしか言いようがないのです。
その証拠を見てみましょう。
595年、百済と高句麗からそれぞれ高僧が来日しています。
日本の最も重要な同盟国は百済でしたが、太子の仏教の師匠となったのは、百済ではなく、どういうわけか高句麗の僧のほうでした。翌年には、この僧とともに伊予温泉(愛媛県の道後温泉)へ行っています。
photo by shinyai
あれ? 中央で政治に辣腕をふるっていたんじゃないの。当時の仏教の最大の功徳は病気を治すことでしたから、僧はお医者さんみたいなもの。温泉はもちろん湯治が目的の場所です。
僧侶のアテンドで温泉と言えば、当時は「ああ、太子さん病気になっちゃんのね。治療にいってらっしゃーい」と認識されていた可能性は高いのです。
道後温泉で「坊ちゃん」から脱却
そして、5年後、心も体も完全にリフレッシュした聖徳太子がいよいよ伝説の男への階段を歩みはじめます。
太子が、明確に国政で活躍をはじめるのは、20代後半。斑鳩宮(奈良県斑鳩町)を建てた601年以降です。
600年に、日本は対新羅戦争の軍勢を九州にまで送っているのですが、このときの大将軍は豪族、境部氏が務めています。ところが、602、603年に計画された外征の将軍は聖徳太子の兄弟が担っているのです。そこで601年ごろを境に、太子が外交の主導権を握ったとみられるのです。
実は、古代の東アジアにおいて、外交の最高責任者は皇帝や王など国のトップではなく、それに準じる立場の人間が務めるという仕組みがありました。
例えば、太子の曽祖父にあたる継体天皇の時代に、日本が形式的に支配権を持っていた加羅(任那)の一部を百済に譲ったことがありました。それを、あとになって知らされた皇位継承順位第1位の息子(のちの安閑天皇=ラオウ)が、自身の権限である外交について相談のなかったことに憤慨したという前例があります。
つまり、20代の後半になってようやく「摂政」と呼ばれてもいいくらいの実力をつけたようです。
張り切って朝鮮出兵も渡海すらできず
話をラオウから聖徳太子の時代に戻します。
太子が関わった602年の遠征では、実の弟、来目(くめ)皇子が厨二炸裂の「撃新羅将軍」となって、2万5000人の大軍勢を動員しました。ところが、渡海直前に来目が九州で病になって、翌年死亡してしまうのです。新羅による暗殺説もあります。
ここで思い出してほしいのがこの一連のシリーズのきっかけになったNHKクローズアップ現代のお話です。なぜ、日本が新羅に進攻しようというときに、九州の豪族が新羅から豪華な馬具=ワイロっぽいものをもらっていたのでしょうか。ようやく、点と点がつながりました。新羅のワイロ大作戦で、日本側には足をひっぱる、サボタージュする、もしかしたら将軍を暗殺するなどの輩が続出したと見られるわけです。そんなワイロがあの馬具でしょう。
駄菓子菓子、メンタルが強くなった太子はあきらめません。
さらに異母兄の当麻(たぎま)皇子を「征新羅将軍」に任命し、送り出します。
ところが、メンタルが弱かったのは当麻のほうでした。
彼は途中で「オレのかわいい嫁が死んだんです」という理由にもならない理由で引き返してしまい、征討がまたも中止されてしまいました。
太子が「摂政」になったとはいえ、所詮はまだ若造。「あいつ5年も温泉で遊んでいたくせに」とか心ない中傷が王朝内で飛び交ったのでしょうね。
駄目な日本軍に幻滅してできた憲法十七条
しかし、太子が千円札や五千円札になるような凡人と違うのは、この時点で「国政や外交の決定事項を、皇族や豪族が勝手に覆す現状を打破しないといけない」と気づいたことです。反省力たかいです。
新羅征討作戦の中止から5ヵ月後、太子はおじの蘇我馬子とともに冠位十二階を制定します。来ましたね、The教科書用語。
どの豪族出身かを問わない個人の実力主義を採用した「冠位十二階」は画期的な制度です。
しかし、「地方の豪族は対象外」でした。地方の勢力を中央豪族と差別したという見方がありますが、むしろ、当時はまだ独立性の高い地方の豪族を明確に天皇の配下に位置付ることが難しかったというのが実態でしょう。
604年には、かの有名な「憲法十七条」をつくります。
この憲法の意味はなんだったのでしょうか。
当時の日本に足りないものがわかる条文
いつの時代も法律のたぐいは、「悪い状態」を直すためのものです。窃盗罪は、泥棒がいるからできたのであって、窃盗罪という刑法ができたから泥棒が生まれたわけではありません。
憲法十七条も同じようにみることで、当時の日本が抱えていた状態がわかります。
第一条「和を以て尊しとなせ」の条文には「続き」があります。「従うべき君主や父親に従わないものがいる」とも書かれているのです。2年前に遠征中止となったことへの痛烈なイヤミでしょう。
第二条は「仏教を信仰せよ」。
当時のアジアではほとんどの有力国が仏教国となっていました。600年に初めて遣隋使を中国の隋に送ったのですが、遣隋使たちは国際ルールを知らなかったがために大恥をかいています。
信仰としての仏教よりも、王朝に務める皇族や豪族はすべからく世界水準の「インテリジェンス」(仏教知識)を持たないといけないという認識があったのです。
この条文は現代語訳すれば「英語を勉強しなさい」という意味です。
そして第三条が大事です。戦後の日教組的教育では、第一条は教えられますが、三条はぜったいに飛ばされます笑
「天皇の命を受けたら必ず従うこと」です。
第一条とあわせてみると、このときの天皇の権威が必ずしも絶対でなかったことがわかりますよね。言うこと聞かないヤツが多すぎる~!と激オコなわけです。
第八条には、「高官や役人は早く出仕し、遅く退出すること」とあります。これも逆に考えると、午前11時に出社してきて午後3時に帰るみたいな大○市の公務員みたいなのがたくさんいて困ったという状況を示しています。
また、あまり注目されていないのですが、最後の第十七条も味わい深いです。
「物事を決めるのに独断ではならない。細かいことはいいが、大きなことを独断で判断すると間違えることがあるからだ」
太子の本心が盛り込まれていて興味深いのです。この時代を「3頭体制」なんて言われますが、叔母の推古天皇、叔父の蘇我馬子は、年も経験もずっと上。むしろ、重大な国政の案件は、太子抜きで二人で決めていたのではないでしょうかね。
若き皇族のエリートとしての自負と現状への不満がかぎ取れる一文です。
武闘派から文化人へ、そして聖人へ
聖人のイメージが強い太子ですが、こうして伝承の類をのぞいた記録を素直に読んでいくと、特に前半生は好戦的で、「敵の新羅をとにかく打つべし、打つべし、打つべし」という超武闘派でした。
しかし、2度の遠征失敗で外交方針を変えました。武力ではなく知識を使った戦いを始めるのです。やっぱり太子は反省力がすごい。
608年には、小野妹子を大使にして2回目の遣隋使を派遣。しかし、やっちゃいました。隋の皇帝にあてた外交文書が皇帝、煬帝の怒りに火をつけたのです。激おこどころか、激おこプンプン丸かむちゃっかファイヤー!(煬帝は2013年11月に墓が確認された人です。工事中に発見の墓、隋王朝の煬帝だった 中国・揚州市:朝日新聞デジタル)
「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す」
かつては皇帝が怒った理由について、隋を日没つまり衰退する国と表現したからとされていましたが、現在では研究が進み、「日出づる」「日没」は仏教用語で西と東を表す言葉であって、侮蔑的な意味はなかったことが判明しています。
中国側が許せなかったのは、世界に中国の皇帝の一人しかいない「天子」を勝手に名乗ったからでありました。
このときになぜ天子と表現したのかについては諸説あるのですが、隋の怒りを買ってからはこの表現をしなくなったことから考えると、大して深く考えずに自分たちは「天孫」であるという意味で使ったというのが案外正しいそうです。
もっとも、外交文書の作成には漢文に翻訳した外国人(半島人や渡来人)が関わっていたはずです。
いったい、皇帝を怒らせる文書を書いたのはどこのドイツだ?
思い出してほしいのは、一緒に温泉に行った太子の師匠は高句麗出身の僧侶でした。
当時、高句麗と隋は険悪で、事実上の戦争状態でした。だからあえて隋を侮辱するために高句麗出身の翻訳家が「爆弾」を忍ばせた可能性もありますね。
隋の皇帝は一瞬怒ってはみましたが、高句麗と戦争状態にあることもあって、高句麗の背後にある日本と仲良くしておくのは戦略的に重要なので、正式な外交関係を結ぶことには合意しました。
この遣隋使が日本にとって外交的な成功であったことは、小野妹子らが帰国した翌年の610年、新羅が10年ぶりに天皇に朝貢してきたことからもわかります。「やべー、今まで反日でやってきたのに、日本さんがまさか中国さんと手を結ぶなんて。とりあえず首脳会談はしましょうか」みたいな感じでしょうかね。
6世紀前半に新羅が加羅を吸収して以来、日本にとっての不倶戴天の敵であった新羅を形式上でも「服属」(朝貢とはそういうこと)させることができました。むろん、「外務大臣」の太子の評判はぐんと上がりました。
この外交の大成果を果たして初めて、太子は天皇の推古、大臣の馬子に並ぶ飛鳥王朝の「三頭政治」の一員として堂々と名乗りを上げることになったのでしょう。
これ以降の太子の政治における存在感がのちの時代に「二十歳の頃から摂政であった」と評される理由となったのです。
現代でも、ビジネスで功をなした人がはまるのが「歴史」ですよね。
聖徳太子もお経を著す文化人としての顔が目立つようになり、620年には日本史上初めての歴史書「天皇記」「国記」などを編纂しました。これらは現存しないのでどんなことが書かれていたのかは分かりませんが、アジアにおいて文明国といえる条件のひとつに、自分たちの歴史書を持っているということがあったので、この功績も大きかったのです。
その2年後(日本書紀では翌年)、太子は49歳でこの世を去ります。父の用明も即位わずか2年で死去、弟も早世し、息子はその後、蘇我氏によって一族ともに滅ぼされてしまいます。この太子の血縁の悲劇性こそが、のちに「聖徳太子」としてあがめられ、現代まで信仰され続けている要素の一つとなったのです。
聖人化の謎は法隆寺にあり
もちろん、悲劇の主人公であるだけでは「信仰」にはいたりません。ではだれが聖徳太子を神のようにあがめだしたのでしょうか。
このミステリーの答えは、世界遺産「法隆寺」にあるのです。
photo by jpellgen
長くなりましたので、続きはまた後日。ではでは~
恵美嘉樹(歴史作家)・記 (著書に『最新 日本古代史の謎』(学研)、『全国「一の宮」徹底ガイド (PHP文庫)』)など
この古代シリーズの歴史(おさらい)です。
1 NHKがクローズアップ現代(12月2日)で「明らかになる古代の『日韓交流史』」を放送。聖徳太子の時代に日本と新羅が緊張状態にあったという内容だった
2 そもそもなんで緊張状態になったのか?というエントリーを「古代の日韓交流史」NHKがクローズアップした時代の少し前になにが起きたかまとめた」を書く(継体天皇の時代)
3 「北斗の拳に脳内変換したらバッチリわかる!聖徳太子以前の日本古代史」を書く(継体天皇の次ぎの3代)
4 「ドラえもんに脳内変換すれば古代の【崇仏論争】が劇的に面白くなる!」
5 「和を以て尊しとなす」の聖徳太子が武闘派で戦争好きだった件当は武闘派だった聖徳太子