天智天皇

『古今偉傑全身肖像』の天智天皇/wikipediaより引用

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天智天皇による政敵粛清が圧倒的!諱の由来は紂王の「天智玉」か

第38代天皇である天智天皇

天智天皇10年(672年)12月3日が命日です。

【大化の改新】立役者の「中大兄皇子」時代からすると、横暴な蘇我入鹿を倒したNEWヒーロー! そんなイメージもあるかもしれません。

しかし、彼の素顔はかなりクセがあります。

政敵になりそうな者たちは、たとえ身内だとしても粛清&粛清。

その徹底っぷりたるや戦国時代の宇喜多直家斎藤道三も顔負けで、手口もかなり鮮やかと申しましょうか。

今回の日本史ワル査定は、天智天皇で振り返ってみましょう。

 

父も母も天皇というプリンス

天智天皇は舒明天皇の皇子でした。

母は、その皇后であり、自身も天皇の位に就いた皇極天皇(重祚して斉明天皇)。

母・皇極天皇は、蘇我入鹿が討たれた時(乙巳の変)の天皇で、変の翌日に位を自分の弟・軽皇子(かるのみこ)に譲っております。

そもそもこのクーデター、入鹿が横線をしていたというより単なる朝廷の内紛ととらえる向きが強いのですが、そのことにつきましては「蘇我入鹿」のページをご覧下さい。

蘇我入鹿
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さて入鹿を倒した中大兄皇子。

自分が天皇になっては私欲のためだと懸念したのか。当初から協力体制にあった叔父の軽皇子を孝徳天皇として即位させ、自分は皇太子となり政治を行いました。

年号を「大化」に改め、天皇を中心とした支配体制を確立するため様々な改革を断行するのです。

有名な政策として、土地や私民はすべて天皇のものとする【公地公民】や戸籍を制作し、民に土地を貸す【班田収授法】、その代わりに税や労役を課す【租庸調】、今まであった国や県、郡を再編成した【令制国】などがあります。

ここまでですと理想に燃える若きリーダーって感じなのですが、問題はその背景。

邪魔者は徹底排除の姿勢を見せます。

・異母兄(母は蘇我氏の娘)に謀反の疑いをかけて殺害

・乙巳の変の協力者であった、蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑いをかけて自殺に追い込む

蘇我倉山田石川麻呂
蘇我倉山田石川麻呂の自害~従兄弟の入鹿を殺した乙巳の変では功労者だったが

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病んだフリして南紀白浜へ

政治の実行にあたっては孝徳天皇を無視することもあり、次第に2人は反目するようになります。

天皇が難波宮に遷都したことが気に入らなかった彼は653年に都を飛鳥に戻すよう提案し、天皇がこれを拒否。

結果、天皇を残して飛鳥に行っちゃいました。

家来も殆ど中大兄皇子に付いてしまい、皇后までも飛鳥に行ってしまうと、天皇は寂しく亡くなってしまいます。

孝徳天皇の跡を継いだのは前述の母(前・皇極天皇)で、返り咲いて斉明天皇に。

中大兄皇子は皇太子を続投しますが、この治世でも、孝徳天皇の息子・有間皇子(ありまのみこ)を罠に掛けようとします。

「政争に巻き込まれてはまずい!」

そう判断したのでしょう。有間皇子は病んだフリして南紀白浜へ湯治に出かけます。

そして飛鳥に戻った有間皇子が斉明天皇に「温泉、超良かったです!」と報告したところで斉明天皇も温泉にお出かけ。

飛鳥に残った皇子に有力貴族が近づきささやきます。

「斉明天皇と中大兄皇子の政治はダメですよねー。私は有間皇子の味方ですよ~」

フラグでした。

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