三条天皇

三条天皇(江戸時代の百人一首)/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

三条天皇が40歳で譲位へ 道長に追いやられた無念は後三条天皇で晴らす

長和五年(1016年)1月29日、三条天皇が譲位しました。

次に即位したのは幼い後一条天皇であり、摂政に就いたのが藤原道長

「後」とつく通り、この幼帝は藤原定子の旦那様・一条天皇のお孫さんにあたります。

藤原定子
なぜ藤原定子は自ら髪を切ったのか?一条天皇に愛され一族に翻弄された25年の生涯

続きを見る

即位した順番としては

一条天皇

三条天皇

後一条天皇

ですね。

今回は藤原道長との関係も含めて、三条天皇の足跡を追ってみましょう。

 

 孫を天皇にしようと道長、走る

後一条天皇は道長の娘彰子の子供でしたから、外祖父としての立場を振るいたくてしかたがない道長は、三条天皇にあれこれ圧迫をかけていました。

三条天皇には東宮(皇太子)時代既に別系統の藤原氏から奥さんをもらっていたのにも関わらず、新たに自分の娘を嫁がせるわ、同じく天皇が目を患ったときには「お体も悪いんですから早く譲位してくださいよ」とせっつく始末。

そのため、譲位したとき三条天皇はまだ40歳にもならない若さでした。

当時の寿命を考えれば、確かに位を譲ってもおかしくはない年齢ですが、事の経緯を知ると道長の強引さが際立ちますね。

藤原道長
藤原道長は出世の見込み薄い五男だった なのになぜ最強の権力者に?

続きを見る

【天皇と対立し皇位を狙っていた】というと槍玉に上がるのは足利義満織田信長で、実際は狙っちゃおらず、道長のほうがよほどなことをしているような気もします。

足利義満
日本国王の称号を持つ足利義満~室町幕府・三代将軍51年の生涯まとめ

続きを見る

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

とはいえ三条天皇も皇位に就いた者としての責任や意地がありますので、そう簡単に言いなりにはなるまいと努力を重ねていたようです。

例えば上記の道長の娘・妍子ではなくそれ以前から連れ添ってきた女性(残念ながら文字コード制限で字が出ません)を皇后にし、譲位の際は皇后との間に生まれた親王を皇太子にするなど、いろいろ策を重ねました。

しかし他の貴族は道長を恐れてとりまきになるばかりで、天皇に尽くそうとする者などおらず、たった一人で闘うことを余儀なくされました。

結局、妍子は道長の意向で中宮になり、皇太子のほうはやはり道長の圧力に耐えかねて、自ら位を降りるという最悪の結果になります。

 

百人一首にも選ばれた三条天皇の歌とは

目の病気についてはどんなものだったのかわかりませんが、失明寸前までいったのは事実のようです。

三条天皇は薄れ行く視界を何とか留めようと、あちこちの寺社に快癒の祈祷を命じました。

しかし薬や祈祷の効果はなく、さらに内裏(天皇の住まい)が炎上するという不吉な事故が起きたため、結局譲位を受け入れざるを得なくなったのです。

一説には三条天皇が薬を飲んだ直後に失明したともいわれていますし、内裏の件にしてもタイミングが良すぎて怪しさ爆発ですけども、当時これを告発する勇者はいませんでした。

そして譲位が決まった後、在位約五年という短い間の奮闘を振り返りながら、三条天皇は歌を詠みます。

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

【意訳】決して長生きしたいとは思わないが、もしそうなったとしたら、今宵の名月はいかに恋しく感じられる事だろう

百人一首にも採られている有名な歌ですので、ご存知の方も多いでしょう。

かるたとにらめっこしているとなかなか背景にまで意識が向きませんが、実はこんな孤独な闘いの末に詠んだものだったのです。

三条天皇は譲位後出家し穏やかな生活に入ったものの、既に精根尽き果てていたのか、41歳で亡くなります。

一方道長は、三条天皇が亡くなった年に後一条天皇へも娘を嫁がせ、一つの家から三人の皇后を立てるというウルトラC(のゴリ押し)を達成しました。

そしてあのイヤミたっぷりの歌

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

を詠みます。

 

道長の死後 藤原氏ボッシュート!

このとき道長は既に52歳。

そろそろこの世からご退場いただいても構いませんのにと思っていた人も多かったでしょうが、さらに10年ほど君臨し続けました。

晩年には(自分と)貴族達の極楽往生を願って大規模な寺院の建築に力を注ぎ、周囲の貴族達はこぞって工事に協力したそうです。

朝廷に納めるはずのものを先に道長へ納めるほどだったといいますから、呆れてしまいますね……。

ここまでだと道長の圧勝に見えますが、実はそうとも言い切れないところがあります。

道長が亡くなってから六年後、三条天皇の孫にあたる後三条天皇が即位したのです。

後三条天皇
後三条天皇が道長一派の政権卍固めをぶっ壊~す! そして白河院政へ

続きを見る

後三条天皇も約五年という短い間の在位でしたが、その間に経済改革を次々と行い、藤原氏の特権をボッシュートするなど善政を敷きました。

これにより財産の偏りが減り、藤原氏以外の貴族や庶民の生活がマシになったそうです。

もしかすると、お爺様の無念を晴らすという意味もあったかもしれませんね。

道長にとっての月は生きている間に満ちましたが、三条天皇の月はご本人が亡くなってから満ちたようです。

あわせて読みたい関連記事

◆ドラマや平安時代など全ての関連記事はこちら→(光る君へ

◆以下、名前をクリックすると各人物伝の記事へ飛びます

紫式部
まひろ
藤原為時
まひろ父
藤原惟規
まひろ弟
藤原宣孝
まひろ夫
藤原道長
兼家三男
藤原兼家
道長の父
藤原道兼
道長の兄
藤原道隆
道長の兄
藤原時姫
道長の母
藤原寧子
道綱の母
藤原道綱
道長の兄
高階貴子
道隆の妻
藤原詮子
道長の姉
一条天皇
66代天皇
藤原定子
道隆の娘
藤原彰子
道長の娘
源倫子
道長の妻
源雅信
倫子の父
藤原穆子
倫子の母
赤染衛門
女流歌人
藤原公任
道長の友
藤原斉信
道長の友
藤原行成
道長の友
藤原実資
ロバート
藤原伊周
道隆嫡男
藤原隆家
道隆四男
清少納言
ききょう
清原元輔
藤原頼忠
公任の父
安倍晴明
陰陽師
源明子
道長の妻
円融天皇
64代天皇
花山天皇
65代天皇
藤原忯子藤原義懐
朱仁聡
宋の商人
周明
宋の医師
三条天皇
67代天皇
藤原顕光
兼家の甥
藤原頼通
道長嫡男
藤原為光
忯子の父

◆配役はこちら→光る君へキャスト

◆視聴率はこちらから→光る君へ全視聴率

◆ドラマレビューはこちらから→光る君へ感想

コメントはFacebookへ

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
三条天皇/wikipedia
藤原道長/wikipedia

TOPページへ

 



-飛鳥・奈良・平安, 光る君へ
-, ,

×