単身赴任といえば、ドラマや小説の世界ではサスペンスの舞台になったり不倫のきっかけになったり何かと便利なシチュエーションです。
浮気がきっかけで殺人事件になるような話もありますね。
いかにも現代の経済至上主義(家族は二の次)的な制度のように思えますが、実は古代から「一家の大黒柱が遠くで働く」ということがありました。
戦争になればもちろんのこと、平時でも。
歴史というより文学の世界でお馴染みかもしれませんね。
天平九年(737年)9月21日に廃止されたとされる、防人のことです。
なぜ防人は置かれたか?
遣隋使や遣唐使など。
当時は大陸との行き来がある程度盛んになっていた時期ですから、逆に大陸の人が日本に渡ってくることも当然ありました。
しかし、奈良時代に朝鮮の争いに首を突っ込んで負けた【白村江の戦い】以降、
「今度はあいつらがこっちに来て暴れるかもしれない。百済の王族かくまったし」
ということで、一番海を渡ってきやすい北九州の守りを固めることになったのです。
そのために徴発された農民など一般の人々のことを”防人”といいます。
現代的な言い方にするとすると「九州北部民間防衛隊」というところでしょうか。
福岡県の沿岸部には「水城」と呼ばれる防御施設も築かれたりしました。

水城跡/photo by STA3816 Wikipediaより引用
駆り出される方は当然大迷惑。
涙の別れも全国各所であったことでしょう。
しかも費用は自腹というのですから、諸々の意味が含まれた涙であったことは想像に難くありません。
現代なら会社辞めて訴訟起こすレベルですね。
そうした、あらゆる悲しみを込められた和歌が”万葉集”の中にたくさん残っており、まとめて【防人の歌】と呼ばれています。まんまやな。
土地の名前が出てくる【防人の歌】具体例
今回は、そんな防人の歌から、故郷であろう土地の名前が出てくるものを抜き出してみました。
「千葉の野の 児手柏の ほほまれど あやに愛しみ 置きて誰が来ぬ」
【意訳】千葉の児手柏のように小さく可愛らしい人だから、何も言わずにここまで来たよ
千葉の大田部足人という人が詠んだといわれているものです。
雰囲気からして、おそらく片思いのまま防人になったのでしょうね。せつねえな、せつねえよ!
「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」
【意訳】足柄の坂の上で袖を振ったら、家にいる妻からも見えるだろうか
足柄は今の埼玉県ですね。
字面だけだと「仲が良い兄妹だったんだな」という歌にも見えますが、実はちょっと違います。
兄妹婚の名残で、この時代「妹」と言った場合、妻をさすことも多いからです。
ちなみに奥さんからの返歌も残っています↓
「色深く 背なが衣は 染めましを み坂給らば まさやかに見む」
【意訳】夫の服をもっと濃い色に染めておけばよかった。そうしたら、あの坂から手を振ったときにもはっきり見えたでしょうに
リア充爆発し(ry
貴族たちも防人には「あはれ」を感じていた?
防人に「あはれ」を感じた貴族も多く、これまた和歌の題材として好まれた時代もありました。
他人事扱いだから呑気に歌なんて詠めたんだろう……。
と思いきや、貴族たちも父や兄・夫が各地の領主(受領)などで単身赴任になることは珍しくなかったので、何となく気持ちがわかったのかもしれません。
もちろん、生活の質には雲泥の差があったでしょうが。
貴族が防人や遠くにいる知人へ詠んだものとしては、こんなのがあります。
「沖つ鳥 鴨といふ船の 還り来ば 也良の崎守 早く告げこそ」
【意訳】沖の海鳥よ、頼りを運んでくる船が来たなら、也良の地の防人にすぐ知らせてやってくれ
「銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子に如かめやも」で有名な山上憶良が防人を詠んだものです。
憶良は防人たちが赴任させられた筑前の領主をやっていたので、彼らの悲哀をごく間近に見ていたのでしょう。
子供だけでなく、情に厚い人だったんですね。
次は百人一首十六番・在原行平の歌に注目してみましょう。
「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」
【意訳】今は故あって因幡へ行かなくてはなりませんが、あなたが待っていると聞いたらすぐにでも帰ってくるつもりです
防人や領主の任命ではなく、政争に敗れて失脚したときのもので、心情は似ているんじゃないかと思うので紹介させていただきました。
彼が流された先は須磨だったので、光源氏のモデルの一人ともいわれていますね。
「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」
【意訳】淡路島へ通う鳥の鳴き声に、須磨の関守は何度起こされたことだろう
こちらも百人一首から。
七十八番、詠んだ人は源兼昌です。
至ってフツーに情景を詠んだシンプルな歌ですが、その様を想像すると何となく物悲しいですね。
現代に置き換えれば「単身赴任したあいつは、今日も取引先からの電話で寝入り端に起こされているのだろうか」くらいの感じでしょうか。
こんな感じで行くほうもそれを見た上司達も「防人ってキツくね?」と思っており、農民を徴発するのはやめようということになりました。
防人制度そのものは武士の台頭まで続きましたが、当時のお上はまだ庶民を思いやる雰囲気があったんですねえ。
長月 七紀・記