桓武天皇が「今度こそ厄払いするぞ!」と気合を入れて、自身二回目の遷都をした平安京(以前は長岡京)。
さまざまな政争を経ながら、日本という国と文化が成長していきます。
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桓武天皇のパワフル生涯~どうして遷都のほか様々な改革を実行できたのか
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今回は、菅原道真を排斥した摂関家・藤原時平の後の時代、藤原道長と平安中期を中心に見ていきましょう。
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地方から運ばれる税が盗賊に狙われた
権勢を誇った藤原時平が亡くなり、次に台頭したのが弟の藤原忠平。
この時代に藤原北家=摂関家の権力が確立し、忠平の子孫だけが摂政・関白になることが決まりました。
といっても、政策については他の貴族を含めた会議で決められることがほとんどだったので、独裁とはまたちょっと違います。
現代に置き換えるとすれば、「社長は代々世襲だけど、株主会議はちゃんとやるよ」みたいな感じでしょうか。
……余計わかりづらくなった? サーセン(´・ω・`)
平安時代の政治は、中央にばかり目が行きがちですが、その頃、地方では別の問題が起きるようになっていました。
朝廷は各地方の治安維持を重視しておらず、この時期、平安京以外の場所では治安が悪化していたのです。
特に「地方から税を運んでくる間に盗賊に襲われる」ということが頻発しました。
朝廷も税収が減って困りますから、中央政府がもっと積極的に動くべきだと思うのですが、あくまで他人事だったんですね。
そこで、こうした事態や自らの土地・財産を守るため、各地方で自ら武器を取り、武士化していった人々がいました。
京にいる貴族たちも、こうした地方の武士たちを取り込んで武士団を作り上げていきます。
承平・天慶の乱を経て武家が認められるように
朝廷としても、事後承諾に近い形でこれらを認めざるを得ず、武士団が地方の治安維持を担っていくことになります。
「貴族(公家)は京、武家は地方」という形は、この時点で確立していたといえるでしょう。
あるいは「侍」の語源が「さぶらふ」=「偉い人に付き従う」ことからも、これは裏付けられるでしょう。
武士団は各地で形成され、盗賊の襲撃に備えて武芸を磨いたり、京のお偉いさんと地元民の仲介役になったりして、勢力を強めていきました。
うまくいった地域もありましたが、うまく行かなかった例が【承平・天慶の乱】です。
・平将門の乱
・藤原純友の乱
・+α
これらを合わせた呼び方ですね。
将門の乱についてはこちらで↓。
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平将門の乱はナゼ起きたか 怨霊が怖すぎる首塚伝説を含めてスッキリ解説!
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藤原純友は名字からもわかる通り、藤原氏の人です。
しかも血筋的には摂関家の流れを汲んでいました。
が、父親を早くに亡くしたために出世の見込みが消えてしまい、瀬戸内海の海賊討伐の役目をもらったはずが、海賊の親分になってしまったという「イイとこのお坊ちゃんがグレてヤクザの頭になった」みたいな話です。
そういう大博打って、よほどの準備と運がないと成功しないもんですよね。
彼らを討伐した武家たちは、正当な武士として世間に認められ、名門扱いされていきました。
貴族たちは荘園で豊かになったが
一方、京では各貴族たちが一定の家系に仕事を代々引き継がせるようになります。
また、そのために自分の子供達や優秀な人材を私的に教育しはじめました。
このころ貴族たちや寺社は、各地に私的な領地として荘園を持ち、これを発達させて財源としています。
もちろん、朝廷から各地に任じられた国司もいました。
その部下であり、現地に赴く受領(ずりょう)は、国庫に納めるべき税の他に富を蓄えていきます。
平安文学や女房の話題で「どこそこの受領」とか「受領の娘」という話がよく出てくるのは、受領がこの時代の権力者&富裕層の代表格だったからです。
受領とは任国に赴く人の中で一番エライ人のことを指すため、その旅上や留守中のことなどがネタにしやすかったのでしょう。
例えば、源氏物語に出てくる空蝉の君(光源氏が若い頃に関係を持った女性の一人)は、伊予の受領の妻です。
また、紫式部の父・藤原為時も国司として越前に下向していた時期があります。
幼い頃の紫式部も連れて行かれたそうなので、彼女の文才を作り上げる一要素になったかもしれません。
しかし、この状態をほったらかしておくと、貴族は豊かになっても朝廷の財政が危うくなります。
そのため、10世紀に即位した花山天皇は荘園の状態を是正しようとしたのですが、摂関家の反発を受けて退位させられてしまうのでした。
とはいえ摂関家も「やりすぎるとこっちが恨まれる」ということはわかっていますので、抑制には取り組もうとしています。
ここで登場するのが、日本史上最も権力を持ったのではないか?という印象の藤原道長です。
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藤原道長62年の生涯まとめ! 当初は出世の見込みなく義母に頭上がらず!?
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そもそも出世の見込み薄だった藤原道長
現代のイメージからは意外ながら、藤原道長は「やり過ぎないようにしよう」という方針でした。
たしかに、娘を入内させることによって、一族が皇室にガッチリ食い込むように必死でしたが、独裁を狙っていたわけではありません。
当時は神や祟りの存在が深く信じられていた時代。
となると、神の末裔である皇室に成り代わるよりは、その威光を利用して、ブッコロされない程度の位置を保ったほうがいい……と考えたのです。
藤原氏自体がそうやって成り立った家ですしね。
おそらくや後述する「望月の歌」のイメージが強すぎて勘違いされがちなのでしょう。
そもそも道長は摂関家の生まれとはいえ、五男だったため出世の見込みは薄い立場でした。
頼れるのは妻の実家が皇族の流れを汲む宇多源氏だったことと、ときの帝である一条天皇の母が道長の姉であり、道長びいきだったことくらい。
そして兄たちが流行病で相次いで亡くなったことも道長にとっては追い風となりました。
一条天皇は、道長の兄・道隆の息子であり、寵愛する皇后・藤原定子の兄でもある藤原伊周(これちか)を推していたのですが……母があまりにも道長を推すので断りきれなくなり、道長を引き立てたのでした。

藤原伊周/wikipediaより引用
関白にはならない、その理由とは
こうして道長は外堀を埋めるようなカタチで伊周を蹴落とし、いざ摂関家の主になると、娘・藤原彰子を入内させた上、強引に中宮の座につけました。
ここでいう中宮とは、天皇の后のことです。本来でしたら、既に定子が中宮になっていたので、彰子が後から入内してもそれ以上の地位につくことはできないはずです。
が、道長は「定子様には皇后となっていただき、私の娘は中宮になればいいですよね^^」と無茶を押し通します。
これは、定子が入内したときに先代以前の皇后・皇太后・太皇太后が全て存命だったため、彼女自身が中宮となった先例を利用したものでした。
要は強引にねじ込んだわけで。それが原因で道長の印象は最悪になります。
正直、道長に蹴落とされる過程の伊周とその母親・きょうだいたちの有様は哀れとしか言いようがありません。
こうして道長は「御堂関白」と呼ばれるほどの力を手に入れます。
といっても、実際に関白になったことはありません。
なぜかというと、関白は天皇の補佐役なので、天皇との仲が悪いと権力が弱まってしまいます。
一方、摂政であれば幼君の後見ですから、自分のやりたいようにできる可能性が高くなるわけです。
そのため、彰子が産んだ皇子が即位するまで、道長は左大臣であり続けました。
左大臣は、ランク的に太政大臣の下ですが、そもそも太政大臣自体が常設職ではないので、事実上の臣下筆頭ということになります。
その状態でさらなる権勢を望む辺りが、いかにも野心家という感じがしますね。
ここから例の「この世をば……」を歌うようになっていくのです。
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