こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【藤原道長】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
豪胆な性格 当時はガチ怖い肝試しも超ヨユーで
道長は若い頃から割と豪胆な性格だったといわれています。
僧侶に人相を見られて「他の兄弟より優れている」と評されたことがありますし、肝が座っていたと思われる逸話も多々あります。
例えば、あるとき花山天皇が「宮中で肝試しをしよう」と言い出したときの話です。
随分ノンキなことですが、花山天皇は政治的事情で出家するときも
「月が明るくて、頭を丸めるのが恥ずかしいな^^;」
と言っていたような方ですので、元々キュートな方だったのでしょう。
このとき、道長の兄である道隆と道兼は、途中、怖じけづいて帰ってきました。
大の大人とはいえ、物の怪や祟りが信じられていた時代のことですから、ムリもないことです。
安倍晴明で知られる陰陽師の存在があったことからして、バカにできないのはご理解いただけるでしょうか。
-
「妖怪をぶっ飛ばして……ない?」陰陽師・安倍晴明は意外に地味だった
続きを見る
しかし道長は、花山天皇に指定された通り、大極殿(だいごくでん・皇居のお役所エリアである朝堂院、その一番奥にある儀式場)へ出向き、高御座の柱を削って帰ってきたのだとか。
道長が武術に優れていたという話はありませんので、これはやはり肝が相当に座っていたのでしょう。
「陰なんて言わず、面を踏んでやりましょう^^」
もう一つは、藤原公任(きんとう)と道長に関する話です。
公任は、道長たちとは遠い親戚といった感じの関係なのですが、和歌・漢詩・管弦・書道など、当時重視されていた芸術の道を全て得意としており、政治の才も決して低くはない万能型の人物でした。
ついでにいうと、母が皇族なので血筋的にも最上級です。
当然、世間の公任に対する評判は、非常に高い。
それをつくづく感じていた道長の父・兼家は、あるとき
「わが子らは、公任の影さえ踏めないだろう」
と口惜しがりました。
これまた時代が前後しますが、斎藤道三が織田信長に会った後「ワシの子供たちは信長の門前に馬を繋ぐだろう」(=うちのガキどもは信長の足元にも及ばない)と評した……という話と似ていますね。
-
斎藤道三(利政)マムシの生涯63年まとめ! 最期は息子に殺された
続きを見る
-
織田信長 史実の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ年表付
続きを見る
しかし、兼家の場合は、当の息子たちの前で言ったというのですから、どぎつい皮肉というもの。
道隆や道兼も同感だったらしく、反論できずにいました。
そこでただ一人、道長だけが
「陰なんて言わず、面を踏んでやりましょう^^」
と言い返したそうです
わざわざ「面」というあたりが実に自信家というか、手段を選ばない感じがしますね。公任もすごい自信家なので、ある意味、似た者同士で良きライバルというか……。
道長と公任は同じ康保三年(966年)生まれなので、そういう意味でもライバル視していたのかもしれません。
いつの時代も、同じ年頃の人には親近感や敵愾心を持ちやすいものですし。
ライバル公任に送った歌は応援歌?
とはいえ、道長と公任の関係は決して悪くありませんでした。
寛弘九年(1012年)4月、公任の長女と道長の五男が結婚していますし、治安三年(1023年)から翌年にかけて公任が娘を立て続けに亡くしたこと、当時就いていた権大納言以上への出世が見込めないことなどで気落ちし、京を離れて出家・隠棲したとき、道長から次のような歌と僧衣が送られたといわれています。
谷の戸を とぢやはてつる 鶯の 待つに音せで 春の暮れぬる
【意訳】鶯が鳴くのを楽しみに待っていたのに、谷に引きこもったまま今年の春は過ぎてしまったよ
この「鶯」は、もちろん公任を喩えて言ったものです。
その辺を併せて考えると「今年の春はもう終わってしまうけれど、貴方はきっと都へ帰ってきてくれると思っているよ」という感じでしょうか。
道長の娘・彰子に紫式部が仕えており、道長が『源氏物語』の続きを読みたがっていたという話もあることから、「道長は光源氏のモデルの一人だ」とされることがあります。
おそらくは栄華のほどに着目する人が多かったのでしょうけれども、このエピソードからすると、光源氏の親友・頭の中将あたりのほうが近いようにも思えます。
頭の中将も自信家で女性遍歴が多く、名家出身、さらに作中でいうところの「左の藤原家」の当主です。
また、光源氏が須磨に謹慎していた頃、直接会いに行くほどの友情を示したのは彼だけでした。
「仕事がデキて自信家で抜け目もないけれど、友情を決して忘れない」……なんて、実に魅力的な人物ではありませんか。
おそらくは権力者のイメージが強すぎるのと、望月の歌以外の道長の和歌がほとんど知られていないために、彼の人格にはスポットが当たらないのでしょうね。
最近は歴史に関する名著が多々出ていますので、道長の素顔をたっぷり記した本が出てくることを期待しましょう。
あわせて読みたい関連記事は以下へ
-
藤原良房が皇族以外で初の摂政に就任! そして藤原無双が始まった
続きを見る
-
藤原基経は「阿衡事件&応天門の変」で何を得た? 妹嫌いの藤氏長者
続きを見る
-
モヤッとする「位階と官位」の仕組み 正一位とか従四位ってどんな意味?
続きを見る
-
官職と二官八省がわかる! 日本史がマジで3倍ぐらい楽しくなる必須の知識
続きを見る
-
皇位皇族と関わる【臣籍降下】とは?「姓がある=皇族ではない」の法則
続きを見る
-
冷泉天皇は奇行エピソード多く 後継者問題では【安和の変】が勃発
続きを見る
-
薬子の変って実はインパクトでかっ!藤原北家の大天下が始まった
続きを見る
-
糖尿病の道長さん 貴族の頂点に立っても「望月」が見えなかった可能性
続きを見る
-
「妖怪をぶっ飛ばして……ない?」陰陽師・安倍晴明は意外に地味だった
続きを見る
-
紫式部の生涯まとめ~彰子や道長とはどんな関係だった?日記から見るその素顔
続きを見る
-
清少納言はインテリでヒステリックなの?結婚歴や枕草子秘話などの素顔
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「藤原道長」
藤原公任/wikipedia
やまとうた
※藤原不比等の息子たちによって興された藤原四家(ふじわらしけ)
・藤原武智麻呂→藤原南家 ※藤原仲麻呂(恵美押勝)
・藤原房前→藤原北家 ※藤原良房・藤原時平・藤原道長
・藤原宇合→藤原式家 ※藤原百川・藤原種継・藤原薬子
・藤原麻呂→藤原京家 ※マイナー・藤原浜成