平等院鳳凰堂の木像を元に制作された藤原頼通/wikipediaより引用

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藤原頼通(道長の長男)のその後って? 超権力者だった父の影響は?

長和六年(1017年)3月16日は、藤原道長の息子・藤原頼通が摂政になったとされる日です。

あの道長の息子、しかも正室生まれで摂政になったとくれば、さぞイイご身分、イイ生活だったろうと思いきや、そうともいい切れません。

トーチャンの影響が良くも悪くもデカすぎたからです。

 

妻LOVEを押し通した藤原頼通

頼通の出世街道は、やっぱりすごいです。

7歳で殿上童(てんじょうわらわ)
12歳で元服
15歳で従三位
21歳で権大納言

当時の貴族のエリートコースを最初から突っ走っていました。

「殿上童」とは元服前の公家の子弟が宮中へ上がることで、もちろん一部の選ばれた者にしか許されておりません。

成人してからは、ときの天子である一条天皇のいとこ・隆姫女たかひめじょおうを正室にもらいました。皇族から嫁を迎えることになりますから、これには道長も大喜びでした。

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政略結婚の面が強い縁組ながら、頼通と隆姫女王は仲睦まじかったようです。

子供に恵まれませんでしたが、三条天皇から「キミまだ子供いないんだって? 私の姫を降嫁させたいんだけどどうよ」(意訳)と話を持ちかけられても「妻が悲しみますので」と断ったほど。隆姫女王を愛していたんですね。

 

父の道長、ゴリ押し諦める

皇族で「女王」といった場合、おおむね”天皇にならなかった親王の娘”です。

そのため、三条天皇の娘=内親王が降嫁した場合、正室であるにもかかわらず、隆姫女王のほうが格下になってしまいます。

女性にとって実家の格が最高の後ろ盾だったこの時代。もしも三条天皇の申し出を受ければ、隆姫女王は子供に恵まれない上に格下に追いやられ、非常に辛い立場になる……ということを、頼通は避けたのでした。

藤原道長は「皇族から二人も嫁が来るなんてラッキー!! 男は何人でも妻を持っていいんだから、お前もいろんな女性と関係を持て!」(超訳)と言っていたそうですが、頼通はうなずきません。

そのうち頼通が病気となり、お祈りの結果、隆姫女王の父である具平親王の怨霊が現れたため、道長もゴリ押しは諦めました。

当時は「病気=怨霊の祟り or 神仏の罰」という価値観ですから、これにはさすがの道長も引かざるを得なかったようです。

 

三条天皇に譲位を迫る道長

幸い、内親王降嫁の話が取りやめになると、頼通の病は快癒しました。

現実的に考えると、板挟みで神経性の病気になっていた可能性がありますよね。そういうときに悪夢を見て、舅である具平親王のことを寝言に出していたとか、多分そんな感じでしょう。

三条天皇からすると、この件は道長懐柔策の一つだったので、悔しかったでしょうね。

当時の皇太子は道長の孫(彰子の子供)でしたので、道長は外祖父として権力を握るため、しきりに三条天皇に退位を迫っていました。三条天皇にとっては鬱陶しいことこの上ありません。

そこで頼通に内親王を降嫁させることによって、道長をなだめて皇位を保とうとしたのです。

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とはいえ、三条天皇も自分の子供たちには深い愛情を注ぎ、子供たちも三条天皇を思いやっていたエピソードが多々ありますので、頼通の妻を想う気持ちも理解していた……と思いたいですね。

 

頼通、24歳で藤原長者に君臨する

しかし、現実の道長はそこまで謙虚ではありません。

相変わらず三条天皇に譲位を迫り続け、三条天皇が眼病を患ってからはさらにせっつき、ついに天皇も譲位せざるを得なくなります。

道長の孫である後一条天皇が即位すると、頼通は内大臣に進み、摂政の宣下を受け、ついでに藤氏長者(藤原氏全体のトップの座)も道長から譲り受けました。

ときに、頼通24歳。
この若さで妻を守るために父に逆らったとは、当時の情勢からするとなかなかの度胸ですね。

そう考えると道長との関係が悪化してもおかしくありませんが……。
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