斉明天皇

鬼ノ城西門

飛鳥・奈良・平安

高齢の女帝が朝鮮半島へ!斉明天皇が鬼ノ城を建てたのは訓練出兵のため

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吉備の復興と渡来人移住

継体天皇系の天皇は、吉備の復興に手を貸したふしがある。

555~556年には、ヤマト王権を主導した豪族の蘇我氏がわざわざ吉備に出向いて、天皇家の直轄領・白猪屯倉(しらいのみやけ)と児島屯倉を設置。

屯倉の設置は、地方の力をそぐものと考えられがちだが、少なくとも吉備においては、一度、壊滅した地域を復活させる起爆剤になった。

それは畿内にいた渡来人の移住である。

正倉院文書からは、邇摩郷に近い賀夜郡(かやぐん)の約2割が渡来人だったことが分かっている。

さらに日本最古の製鉄炉跡が500年代の千引カナクロ谷遺跡で見つかっている。

こうした最先端の技術は渡来人が持っているもので、ヤマト王権の許可と後押しがないと地方への技術移転は不可能だった。

渡来人の技術で、鉄産業の地となった吉備は飛鳥時代に不死鳥のように蘇った。

吉備王の末裔は、ヤマトへのお礼(もちろん服従の意味もあっただろう)として娘を差し出したようだ。

そうした一人と考えられるのが斉明天皇の母・吉備津姫王(きびつひめのおおきみ)である。

彼女が吉備の出身と断じられれば話は早いが、残念なことに出自は不明。

その名前から、吉備の豪族に育てられた皇女か、あるいは吉備の出身者を父か母に持つ姫と考えたい。

娘の斉明天皇にとって吉備は第二の故郷だったのだろう。

 

鬼ヶ島のモデルとなった山城築城の目的は練兵か

二万地区から北に約10キロ。

標高400メートルほどの山の上に、本記事の冒頭で挙げた鬼ノ城(きのじょう)がある。

鬼ノ城

桃太郎・鬼ヶ島のモデルともされ、史書に登場しないため謎の遺跡といわれていたが、近年、発掘が進むと、斉明天皇・天智天皇のころの遺構である可能性が高まってきた。

先に触れた日本最古の製鉄炉跡が見つかったのも、この山の中腹である。

山頂を囲うように、一周2.8キロにわたり高さ7メートルもの土塁と石垣の城壁が築かれていたというから驚きだ。

現地を訪れ、およそ3時間をかけて、城内を一周してみた。

山を登り切ると、眼に飛び込んでくるのは、復元された西門と「角楼」だ。

鬼ノ城・西門

城内から見た西門

吉備平野に数多く点在する古墳を見下ろし、瀬戸内海まで見える眺望の良さは、敵に備えるのにふさわしい。

西門から南門・東門へと抜けるころ、アップダウンが激しくなり、見学者もまばらになる。

発掘の結果、西門だけでなく、東西南北にはそれぞれ防御に適した構造を持つ門が築かれていたことが分かった。

こうした特徴は朝鮮に見られる山城と共通する。

設計には渡来人が関わっていたのだ。

では、完成させるには、一体どれほどの労働力が必要なのか。

ある研究ではのべ17万人と試算されていて、そうなると、なぜこれほど大規模な城が必要だったのか?その理由も気になってこよう。

これまでは、663年【白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)】で日本が唐と新羅の連合軍に敗北したのをきっかけに、連合軍が日本へ侵攻してくることに備えた、とする見方が一般的だった。

しかし、最近は別の説が浮上してきている。

建築時に使われた古代の物差しを復元した結果、鬼ノ城の南門が白村江の戦い【以前】のものだったというのだ。

この解釈によれば、斉明天皇が築城したとする説に軍配があがる。

鬼ノ城(屏風折れの石垣)

斉明天皇が、これほど手間のかかる鬼ノ城を作り上げた目的は、2万の兵たちの練兵にあったのだろう。

日本軍が海を渡るのは、500年代前半の継体天皇以来であり、150年近く途絶えていた。

岡山の一地域に残された邇摩郷の伝承と鬼ノ城。

これらはヤマトと吉備が密接にかかわった歴史の記憶と足跡だったのだ。

そこには、ヤマト王権に屈服させられた過去の遺恨を捨て去り、協力を惜しまなかった吉備の人々がいたのである。

飛鳥の民に「狂っている」と批判された斉明天皇。

60歳を優に超していた老女が戦地に自ら赴き、土木工事を断行しているのは驚異の一言につきる。

吉備の人々は、斉明天皇の強烈なまでの熱意に打たれて、工事に参加したのかもしれない。

 

斉明天皇の血は天智天皇・天武天皇にも引き継がれ

斉明天皇の人となりを一言でいえば、

「地形すら思い通りに変える野心たっぷりな女性」

となろうか。

自分のやりたいことは徹底的にやる。人の意見には左右されず、我が道を行くタイプだ。

独裁者ともいえる遺伝子は、多くの政治改革を行った二人の子の天智天皇・天武天皇にも引き継がれていく。

しかし、ヤマトと吉備が再び手を結ぶことで栄光の再現を試みた斉明天皇は、661年7月、海を渡る前に福岡県で急死してしまう。

中大兄皇子は、母の遺志をついで開戦に踏み切り、白村江の戦いで大敗した。

斉明天皇は、息子や吉備の兵士たちの行く末を案じたまま亡くなったに違いない。

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恵美嘉樹・記(歴史作家)

本記事は恵美嘉樹の著書『日本古代史紀行 アキツシマの夢』(→amazon)を一部再編集したものです。

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