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『嫉妬していた』例は枚挙に暇がない
古今東西、女性は「パートナーに自分と家族を一番大事にしてほしい」と思うのがフツーの感覚。
一夫多妻制が常識だった平安貴族の女性たちも、夫の他の妻に『嫉妬していた』『苦しんでいた』という例は枚挙に暇がありません。
例えば、藤原道長の側室・明子(高松殿とも)。
彼女は醍醐天皇の孫姫ですが、道長の正室・倫子が宇多天皇の孫、かつ父親が左大臣(臣下で二番めにエライ大臣)だったため、比較されてあまり大事にされませんでした。
明子は父親が失脚してしまったため道長の本宅に住ませてもらえず、明子の子供たちもろくに出世させてもらえない……という散々な目にあっています。
倫子より先に明子が道長と結婚していた説もあるので、余計に哀れです。
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時代が前後しますが、右大将道綱母(うだいしょう みちつなのはは)といわれている女性も、夫の放埒ぶりに苦しめられた一人です。
彼女は道長の父・藤原兼家に嫁いでいて、やはり兼家の正室・藤原時姫や、他の側室たちにかなり嫉妬し、兼家に恨みを抱いておりました。
彼女は情の濃い女性だったらしく、それだけに負の感情も相当のものでした。
著作『蜻蛉(かげろう)日記』を見ると、よ~くわかります。
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男性が読むと、ちょっとホラーに感じられるかもしれません。嫉妬以外のことも書いてありますけど。
奔放(?)に恋愛を楽しんでいた貴族たちもいた
明子や右大将道綱母のような女性は、決して少数派ではなかったでしょう。
子供がいれば元服や裳着(※)までは父親が身の振り方を考えなくてはなりません。
「子はかすがい」となったことも多いでしょうが……子供をよすがにひたすら夫を待つだけ、というのも哀しいものです。
特に、すでに同居している場合や身寄りがいない場合は女性が自分の意志で出て行くことはなかなか難しいため、思い悩んでいた人も多かったと思われます。
では、女性は泣き寝入りするばかりだったのか?
というと、ごく僅かながらに例外もいます。
和泉式部などは、自ら恋や結婚を楽しんでいた代表例でしょう。
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また、紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)も、恋愛を積極的に楽しんでいたタイプです。
大弐三位は紫式部よりも父の藤原宣孝に似ていると言われているのですが、その宣孝は「神詣でに派手な服装で行って罰が当たり、九州に左遷された」という笑えないエピソードを持っています。
父の明るいところと、母の賢さ両方を持った女性だったのかもしれませんね。
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皆さんご存じ「源氏物語」は、こういった平安貴族の結婚形態をほぼ網羅しているので、そういう視点で読むとまた面白いかもしれません。
紫の上や明石の方といった主要人物だけでなく、髭黒の大将の北の方などの脇役の動向まで注目すると、より奥深さがわかるというか、よくもまあこんなに多くの夫婦を描いたものだと思えます。
庶民については、時代や地方によってかなりばらつきがあるので、まとめるのはなかなか難しいところがあります。
そもそも「夫婦」という形態よりも「村の中で子供が生まれればそれでよし」という価値観のところもままあったようですしね。
現代の感覚からすると「OH……」という気もしますが、常識は移り変わるものですし。
いずれにせよ、どの家庭でもずっと「よい夫婦」でいられたらそれが一番ですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
夫婦/Wikipedia
結婚/Wikipedia