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【脩子内親王】
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頼りにした隆家は大宰府で大活躍
母方の藤原隆家を頼ったからには、脩子内親王(しゅうしないしんのう)の立場もこれで安泰――。
かと思いきや、今度は長和元年(1012年)末頃、家主である隆家が眼病にかかってしまいます。
隆家は「大宰府に眼病の名医がいる」と聞きつけ、現地への赴任を強く希望。
長和三年(1014年)11月に大宰権帥として現地へ向かったため、脩子内親王はまたしても頼れる人と離れることになってしまいました。
もちろん脩子内親王がついていく必要はありませんし、この頃の記録はやはり乏しいのですが、おそらく驚きもし、慌ただしくもあったのでしょう。
隆家が九州へ向かう前の長和二年(1013年)、脩子内親王は三条宮へ移り住みました。
ここが彼女にとっての終の棲家となり、ご本人からすると「ようやく落ち着けた」と思ったのかもしれません。
幸い、隆家は現地で善政を敷いて民を安んじ、寛仁三年(1019年)に起きた【刀伊の入寇】では異国の襲撃を撃退するという大活躍を果たしています。
「刀伊の入寇」いったい誰が何のため対馬や博多を襲撃したのか?日本側の被害は?
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これらによって隆家を見直す人もいたので、脩子内親王のもとにも良い知らせが届いたかも……と、思いきや一度染み付いた悪評は簡単には拭えないようで。
寛仁三年の末、隆家が大宰権帥を退いて帰京したところ、その後に疫病が流行ってしまい「疫病を持って帰ってきたのでは?」と言われてしまいます。
日頃の行いというか、長徳の変やそれ以前の行いのせいですね。
時系列が前後しますが、隆家が帰ってくる前年の寛仁二年12月(1019年1月)、同母弟の敦康親王が薨去してしまい、脩子内親王はさらに孤独を深めることになりました。
敦康親王は式部卿の官職を持ち、結婚もして自分の家を構えていたので、この時期にはあまり会えていなかったかもしれません。
皇族も貴族も、成人後はきょうだいであっても異性にはあまり会わないものですしね。
それでも幼少期の接触の多さや彼らの身の上を考えると、やはり寂しさが強かったのではないでしょうか。
『更級日記』の記述に残る
孤独な脩子内親王の慰めになったのは、おそらく物語や和歌だったと思われます。
『更級日記』の寛仁三年(1020年)の部分に、著者の菅原孝標女が次のような記述を残しています。
「母のツテで、脩子内親王に仕えている衛門命婦という人が、宮様から頂いた物語の本を譲ってくれた」
これ以前から脩子内親王が物語を手元に集め、それを衛門命婦ら女房たちに下賜していたことがうかがえます。
中には一条天皇の遺品もあったのかもしれません。
物語を女房に読ませて楽しむ――というのは貴族の趣味の一つであり、同時に孤独を慰めるものでもあったのでしょう。
また”枕草子の良質な版が脩子内親王の手元にあった”とされていますので、それも母后の定子か一条天皇の遺品として、受け継がれていた可能性があります。
清少納言がいつ頃宮中を出たのかについてははっきりしておらず、幼かった脩子内親王が原本をもらったとか写本を作らせたというのも考えにくいので、定子に仕えていた女房か近親者の誰かが書き写したものでしょうか。
女房・相模と共にサロンを形成?
そこからしばらく話が飛びますが、『栄花物語』によると、万寿元年(1024年)1月、異母弟の後一条天皇から脩子内親王へ
「宮中に住んではいかが?」
というお誘いがかかったとされています。
物語を鵜呑みにするわけにはいきませんが、異母姉弟の関係が良好だったことは伺えるでしょう。
しかし、同年3月4日に脩子内親王は出家しています。
”20日ほど体調がすぐれなかったため決意した”とのことですが……上記のお誘いが事実であれば、宮中に戻るか否か、相当悩んだ末に体調を崩してしまったのかもしれません。
脩子内親王にとって、宮中は弟妹との思い出の場所でもあり、母と死に別れた場所ですから、悩むのも宜(むべ)なるかなというところ。
この後も相変わらず脩子内親王の言動に関する記録は多くありませんが、出家した後のどこかの時期から、女流歌人の相模が彼女に仕え始めたと考えられています。
相模とは、百人一首に選ばれた次の一首で知られている人で。
うらみ侘び ほさぬ袖だに ある物を 恋にくちなん 名こそおしけれ
【意訳】あなたを恨んで泣いて、私の袖は朽ち果ててゆくばかり。この恋のせいでこんなつらい目に遭っているのが世間に知れて、私の名もこのように朽ちるのかと思うと、悔しくて仕方がありません
彼女の夫が相模守であり、任地にもついて行ったのでこの通称がつきました。
しかし、この夫が、今でいうところのDVをやらかすような人物だったらしく、女癖は悪いわ、相模の書いたものを捨てるわで、決して良い結婚生活とはいえません。
そこで相模が離婚して、京都に戻ってきたのが万寿二年(1025年)頃とされ、脩子内親王が出家した翌年以降のどこかで出仕したと見るのが妥当でしょう。
どんな経緯で相模が脩子内親王に仕えたのか。
詳細は不明ですが、もしかすると脩子内親王は自らの周囲に文芸サロンのようなものを作りたかったのかもしれません。
当時の貴族女性にとって憧れの出仕先といえば、賀茂の”大斎院”こと選子内親王でした。
『枕草子』や『紫式部日記』でも語られている人ですので、見覚えのある方も多そうですね。
しかし選子内親王は 応和四年(964年)4月24日生まれですから、相模が京都に戻ってきた頃には相当な老齢。
仮に相模が「斎院様にお仕えしたい」と思い、ツテがあったとしても実現は難しかったはず。
それを聞きつけた脩子内親王、もしくは周辺の人々が「こちらへ来てはどうか?」と話をつけて、その通りになった……というような流れが想像できます。
脩子内親王にとっても大叔母にあたる選子内親王と、そのサロンは憧れだった可能性が高そうですし、「私の周囲にも素敵な文芸の場を作りたい」と考えても不自然ではありません。
そこに相模のような優れた歌人が帰京したと聞けば、声をかけそうですよね。
万寿四年(1028年)12月4日、藤原道長が逝去。
3年後の長元四年(1031年)に選子内親王が老病により斎院を退下しましたので、才能ある女房たちの行き所は限られ始めていました。
他に……となると、この時期には皇太后となっていた彰子や、後朱雀天皇の后妃たちのところも可能性としてはありえます。
しかし相模からすると
「宮中に上がったら、男性としょっちゅう顔を合わせなきゃいけないから嫌」
と考えてもおかしくはありません。
実際、相模を口説こうとする男性は複数人おり、その中には小式部内侍(和泉式部の娘)にやり込められて有名になった藤原定頼(藤原公任の息子)などもいました。
となると、生涯独身を通す立場である脩子内親王のもとならば、歌の才を評価されつつ穏やかに仕えられる――そんな魅力を感じても不思議ではないでしょう。
この主従に関する逸話は伝えられていないため、完全に妄想の域ですが。
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