足利尊氏の肖像とされていたが、近年では「高師直だ」という説が根強くなった一枚/Wikipediaより引用

鎌倉・室町時代

高師直は室町幕府設立の立役者!なれど最期は無残な殺され方で……

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正平六年=観応二年(1351年)2月26日は、足利尊氏の右腕・高師直(こう の もろなお)が殺害された日です。

実は、足利尊氏の弟・足利直義が亡くなったのも同日で、1352年の2月26日。

・1351年 高師直の命日
・1352年 足利直義の命日

高師直とバッチバチに因縁があった二人が2年連続して同日に亡くなっている――なんだか奇妙な縁があるようで、足利直義については「観応の擾乱」の記事でも報告しております。

ぶっちゃけ、これだけ聞くと実に物騒な話ですが……経緯からするとなるべくしてなったというか自業自得というか……(師直好きな方スミマセン)。

 

高家は源義家の血を引く家柄

高氏はもともと源氏の祖先・源義家の庶子の血を引くといわれている家です。

その頃からすると既に300年ほど経っていますので、この時代の足利氏とは「かなり遠い親戚」ぐらいの間柄ですね。
※足利家は、源義家(八幡太郎義家)の四男・源義国から始まっています

ただし「足利家のナンバー2を代々務めていた」という実績が、血縁の真偽を上回り、師直も、生まれながらにその位置につくことが決まっていたようなものです。
尊氏が、鎌倉幕府打倒や後醍醐天皇との対立etc.で浮いたり沈んだりしていた間も、尊氏の弟・直義とともに支え続けました。

尊氏も、室町幕府ができてからその恩に応えています。
師直には足利家だけでなく、幕府のナンバー2の位置を与え、高氏一族全体にも要職と領地を与えました。

足利尊氏/wikipediaより引用

南北朝の戦いの中でも、師直は武功を挙げており、代表的なものだと、四條畷の戦いで楠木正成の息子たち(楠木正行・正時)を討った実績もありますね。

いわば、師直は室町幕府創始の最大の功臣といっても過言ではありません。
そのまま順当に行けばよかったのですが……。

 

武官タイプと文官タイプは仲が悪いの法則

古今東西、人間は共通の敵がいればまとまるものです。
逆に言えば、共通の敵がいなくなった途端に、仲間割れすることも珍しくありません。

室町幕府は後者でした。

師直は尊氏の右腕として軍事に携わることが多かったのですが、もう一人の片腕である直義は政治を担当していました。

武官タイプと文官タイプの仲が悪いのも、これまたお決まりの話です。

この二人の場合、性格的にも全く合わなかったようなので、関係は最悪にもほどがあるというもの。
また、師直の弟・高師泰(こう の もろやす)がかなり自己中な性格だったため、その辺も影響したと思われます。

そんなこんなで対立が深まり、直義の側近が尊氏にあることないことを吹き込んで、師直は幕府中枢から追われてしまいました。

 

尊氏に「直義殿を渡してください!」

激怒した師直は、京都の直義邸を襲撃して報復にかかります。

直義は尊氏の屋敷に逃げたものの、師直は容赦せず「直義殿を渡してください!」と訴えました。

従来は源頼朝とされ、近年では足利直義説が有力な肖像画/wikipediaより引用

尊氏としては部下や弟を殺したくありませんし、そもそも二人とも政権樹立の功労者です。
幕府が始まったばかりの時期に、失うわけにはいきません。

そこで二人の間に入って和議を結ばせたのですが、これによって直義は出家して幕府を去ることになります。
もしも師直がクビになったのが直義の陰謀だったら、とんだしっぺ返しをくらったものですね。

事はここで終わりません。

直義が頭を丸めた後、師直は返り咲き、後に二代将軍となる足利義詮を補佐しつつ、幕府の実権を握りました。

と、ここで直義の養子である足利直冬(しかも足利尊氏の実子だからややこしや)が
「義父の仇!」
とばかりに反乱を起こしてしまうのです。

 

首を取って胴体は川に投げ捨てる

なぜ直冬は、実父である尊氏を困らせるような行動に出たのか?
一説には、母親の身分が低く、尊氏とその正室・赤橋登子になかなか認知してもらえず悶々としていたところ、直義がすくい上げたからだとも伝わっています。

いずれにせよ義理でも息子がコトを起こしたからには、足利直義も黙ってはいられません。
すぐさま直冬を救うべく、高師直討伐軍を挙げ、後に尊氏も巻き込む【観応の擾乱】が始まってしまいました。

緒戦で敗戦を食らった尊氏は、師直と弟・師泰の出家を条件に直義と和睦することにします。

しかし、です。
師直はそのための護送中に、直義派の武士・上杉能憲(よしのり)に襲われてブッコロされてしまいました。

首を取って胴体は川に投げ捨てる、という凄まじいやり方だったそうです。
なにやら「強い怨恨が感じられる」一件ですね。

師直に同行していた高氏一族もこのときほとんど殺され、別行動していて生き残った息子・師詮も、二年後に南朝との戦で命を落とし、師直の血は絶えました。

ただ前述のように、直義も師直が殺されてから一年後に急死しており、直冬に至っては途中で歴史の表舞台から姿を消してしまいます。

観応の擾乱は「勝者のいない戦い」と言えるでしょうか。
だとしたら応仁の乱と似たようなもんですね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
高師直/wikipedia
上杉能憲/wikipedia
高師泰/wikipedia

 



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