いつの時代も、身分の低い人ほど生活が苦しいものです。
生活のために借金を始めるや、利息と元本返済の二重苦に苛まされて、いつしか雪だるま式に……こんなとき手っ取り早いのが【借金チャラ!】という荒技。
確かに一時的には楽になりますが、抜本的解決をしないと資金繰りが余計に厳しくなり、その後いよいよ追い詰められてしまう――。
永仁七年(1297年)3月6日、鎌倉幕府によって永仁の徳政令が発布されました。
平たく言えば「金融業者に“ウチの下っ端の借金を免除するように”命じた」というものです。
もともと「徳政」という言葉の意味にはお金のことは含まれていないのですが、生活が苦しい→借金が多いせいだ→ならチャラにすればいいよね! という流れで借金チャラ法になったようです。まさに現金な話ですね。
もくじ
借金チャラにされるなら、もう貸さないよーっだ!
永仁の徳政令の場合は、さらにイヤな感じの裏事情もありました。
この時期、鎌倉幕府の中では元寇に対する御家人への働きに対し、ロクに褒美を出せないことが問題になっておりました。
他国から攻められた防衛戦で新たに土地や物を得たわけではない。
ゆえに「無い袖は振れない」という状態だったのですね。
それでも日本を守るために働いたのは事実ですから、御家人達は褒美を「今か今か」と待っています。
そこで
「褒美の代わりに、今している借金をチャラにできるよう取り計らうから、それで勘弁して(´・ω・`)」
というわけで金融業者にしわ寄せがいったのでした。
マイナスがゼロになっただけで……
確かに一時的な効果はありました。
しかしあくまでその場しのぎ。
マイナスがゼロになっただけで収入が増えたわけではななく、御家人達の貧乏っぷりは以前と大して変わりありません。
それどころか
「お武家さんにお金貸しても返してもらえないし、訴えても聞いてもらえないんならもう貸しません!」
ということで借金すらできなくなってしまいます。
保護されたはずの御家人が
「金を借りないと生活ができないのに、お上のせいで借金できなくなって余計苦しくなったじゃないか!」
と思うのも自然なことでした。
こうして打倒!鎌倉幕府の下地が整っていくのです。あーあ。
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なぜ江戸時代も鎌倉と同じ失敗を繰り返すのだ!?
「借金をチャラ」という方法は上策ではない。
むしろ下策。
それがハッキリしていたのに、江戸時代によく似た「棄捐令(きえんれい)」がたびたび出されています。
最初に発令したのは松平定信でした。
ゆえに寛政の改革ならぬ寛政の棄捐令と呼ばれます。
なぜ失敗した政策をわざわざ真似たのやら……。
と、首をかしげる方も多いと思いますが、江戸時代も鎌倉と同じく【御家人や旗本】といった下っ端武士の生活は苦しく、何とかしてやろうということで実施されました。
時代劇などでお侍さんが傘張りなどの内職をしているシーンがたまにありますよね。
あれはギャグでも何でもなく切実な収入源でして。
問題は、
「なぜ彼らの生活は苦しかったのか?」
ということです。
江戸の物価が高くなったため、御家人たちが困窮
戦がない江戸時代で定期収入があれば、普通は平和な暮らしができそうなもんです。
しかし、それでも彼らが貧乏になってしまったのは、ほかならぬ江戸に定住しなければならなかったからです。
江戸は人口の多さに釣られて物価も高くなり、御家人たちは収入に見合わない出費をしなくてはならず、結果スカンピンになってしまったのでした。
そもそも給料として得る米をお金に換金せねばならない時点で余計なコストが発生しているのであり、一方でお金を扱う両替商などが濡れ手に粟だったのは否定できないでしょう。
なぜ、この役を幕府で請け負わなかったのか?
というと「お金を扱う職業」が下に見られていたからです。
ちなみに地方というか各藩の地元で働いている武士は、半士半農生活で何とかやっていけたようです。
そっちのほうがいいと思っていた旗本・御家人もいたでしょうね。
そして悲劇は再び……ねぇ、お金、貸してよ(;´Д`)
棄捐令は江戸時代に何回か出されています。
が、中身は徳政令と似たようなもので、「金融業者は借金をチャラにしろ」とか「利子をなくせ」とか「今までの利子の分で元金越えてんだからもういいだろ」といった内容でした。
となるとオチも似たようなもので、「返してもらえないのわかってるから貸しません」と言い出す金融業者が続出。
やっぱり下っ端の生活はあまり楽にならなかったのです。
そもそも借金をしないで済むように給料を上げてやるとか、物価高騰を抑制するとか別の方法を試せばよかったと思うのですが、残念なことに最後まで良い方法は見つけられなかったようです。
私が一つ思うのは、食い詰めている旗本が大勢いる中、よくもまぁ大奥ばかりが贅沢をして、襲撃されなかったということです。
一応、大奥にも倹約が言い渡されたり、御台所が着物を下げ渡したりなど、全く無関係ではなかったのですが。
現代ではさすがに、徳政令をやろう――だなんてアホなことを言い出す政治家がおりません。
あ、年金は徳政令の逆版ですかね?
一定以下の世代は損するのが見え見えですし。何とかして(´・ω・`)
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
徳政令/Wikipedia