北条泰時/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代

北条泰時ってマジメ…だがそれがイイ60年の生涯!御成敗式目も成立させる

大仏が青空になった理由。
それは1498年8月に東海沖で明応地震(南海トラフ大地震)が発生したためです。

M8.2~8.4という超巨大地震で津波が発生し、大仏殿を流してしまったのですね。

すでに戦国初期の話ですから、後北条氏が直してもよさそうなんですけど。
その頃には、もう青空大仏で定着していたのかもしれません。

 

朝廷との関係も良好です

泰時が人格者だったせいか。
当時の朝廷と幕府の関係は、概ね良好な時期でした。

このころ朝廷の有力者だったのが、初の摂家将軍となった藤原頼経の父・九条道家や、祖父・西園寺公経だった……というところが大きいようです。

しかし、承久の乱から20年ほど経った頃、彼らが
「そろそろ、流刑になった上皇様方が京都にお戻りになっても良いのでは?」
と言い出した時には、泰時は大反対しました。

上皇二人を支配下に置きたい……というよりは、他の公家や武士が
「なんだ、幕府に逆らっても何年かで元に戻れるのか。なら、何かあったら味方を集めて幕府を潰してやるぜ」
などと考えてしまうのを防ぐ意味ではないかと思われます。

頼朝も、かつて伊豆に流されてから20年間(政治的には)おとなしくしておくことで、平家の目を欺いたわけですしね。

泰時は朝廷や京都を軽んじていたわけではありません。
暦仁元年(1238年)に、将軍・頼経が上洛したときにはお供を務めています。

しかも、単に顔を出す程度ではなく、朝廷との友好関係を保つべく努力しています。
幸い、村上源氏の血を引く公家の一人・土御門定通の妻が、泰時の異母妹だったため、彼らを通じてパイプを作ることができたようです。

また、京都に「篝屋(かがりや)」という御家人の詰め所を数十ヶ所設置し、治安向上を図りました。
これは鎌倉時代を通して続き、室町時代への過渡期には、篝屋にいた御家人が各地での戦闘に駆り出されたこともあったとか。

まぁ、それも足利尊氏が六波羅探題を攻めるまでの話で、その頃には篝屋などにいた在京の御家人は、幕府を見限っていたようですけれども。

 

なんだかんだで10ヶ月 その間、鎌倉でのトラブルなし

そんなこんなで、泰時の京都滞在は10ヶ月もの長期に及びました。
その間、鎌倉で大きな問題が起きていないあたり、幕府や北条氏の力が安定していたと見ることができますね。

泰時、最後の大仕事は、急死した四条天皇の後継者を決めることでした。

四条天皇は1歳で即位という「古代・中世あるある」な経緯で皇位に就いたのですが、11歳で事故死してしまったのです。
その経緯は
「臣下や女官を驚かせようと、御所の廊下に石を置くイタズラをしたら、誤って自分で踏みつけて転んでしまった」
というものでした。
まぁ、天皇とはいえ、今なら小学校高学年の年齢ですから……。

とはいえ、朝廷は大パニック!
とりあえず幕府へ知らせを出したものの、当時の交通・郵便事情では、往復だけで何日もかかります。

そのため、日本史上数少ない「空位の期間」ができてしまいました。

 

鎌倉時代の説話集「沙石集」でも称えられ

将軍・藤原頼経の実家である九条家では、順徳上皇の皇子を次の天皇に推挙しました。

が、順徳上皇は「承久の乱」首謀者の一人です。
幕府からすると「父の恥を雪ぐために、また討幕軍を起こされるかもしれない」わけです。

そこで、泰時は承久の乱に関与していなかった、土御門上皇の皇子を強く推しました。
最終的にこちらの意見が通り、後嵯峨天皇として即位しています。

こうして皇位継承問題は解決されましたが、後嵯峨天皇が後にアレコレして南北朝の問題が起きるという……。
何かがうまくいくと、別の何かが悪い方向へ行く、というのは皮肉なものです。
歴史では常にある話ですが。

泰時はこの騒動の前年にも体調を崩しており、寿命を意識していたようです。
後嵯峨天皇が即位してから三ヶ月後に出家し、「観阿」と名乗りました。

そしてその翌月に亡くなっています。
享年60。

泰時に、悪評がなかったわけではありません。
が、それ以上に好意的な評価のほうが多く残っています。

やはり御成敗式目の制定によって、武士の行動基準を作ったことが大きいのでしょう、
また、朝廷に媚びへつらわず、あくまで分をわきまえて行動したことも評価の理由と思われます。

鎌倉時代の説話集「沙石集」にも、泰時が公正な裁判を心がけて実行したこと、情に厚い人物であったことがうかがえる話が多く載っています。
歴史の資料は、基本的に近い時代に成立したもののほうが信憑性が高いとされていますので、同時代の「沙石集」に書かれたとおり、泰時は優れた人物だったと見る方が自然でしょう。

強引な手で北条氏の権力を確立した義時。
もしかしたら泰時は、自分の代で恨みを軽減するよう、強く意識していたのかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「北条泰時」
北条泰時/wikipedia

※1 堯……あんまりにも政治がうまく行き過ぎて不安になり、こっそりお忍びで街に出て、子供が楽しげに堯を称える歌を歌っているのを見てやっと安心したおちゃめな聖人君子
※2 舜……継母とそれにそそのかされた父親に何度も殺されそうになりながらも生き延び、さらに父親孝行をしたことが有名になって堯に気に入られ、やがて堯から皇帝の位を譲り受けた人

 



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