足利義政/Wikipediaより引用

鎌倉・室町時代

足利義政の切ない生涯56年マトメ 銀閣や応仁の乱で知られる将軍の人柄は?

畠山義就が勝手に「将軍の命令だ!」ということにして大和に兵を出すわ、越前では守護大名の斯波義敏とその家臣である甲斐常治が長禄合戦をおっぱじめ、結果的に共倒れ同然になるわで、義政の能力以前の問題もありました。

ものすごく俗な表現をすると、この頃の義政は

”歯科医院に行って
『痛かったら手を上げてくださいね^^』
と言われたので手を上げたら、
『ハーイ我慢してくださいねー』
とゴリ押しされた上に手を押さえつけられた”

みたいな感じだったのではないでしょうか。

応仁の乱の前年である文正元年(1466年)7月には、琉球国王の使者を義政の屋敷で謁見したという記録があります。

庭に席を設けてもてなしたそうで、旧暦7月=新暦8月の京都で屋外となると、結構ツライような。

義政の屋敷=室町御所は現在の京都御所の北西あたりだったのですが、ここは鴨川からも離れています。
木陰に席を設けたとか、涼しくする工夫は何かあった……と思いたいところです。

また、このとき琉球からの礼物が「進物」と呼ばれているあたり、琉球を下に見ていたことがわかります。
記録した人がそう思っていただけで、義政がどうだったかはわかりませんが。

 

弟を後継者に据えた、と思ったら!

さて、いよいよ応仁の乱が見えてきました。

この頃から義政は、既に政治への関心どころか将軍家の一員としての責任からも逃げたくなっていたようです。

息子がいなかったため、出家していた弟・足利義尋を無理やり還俗させて「足利義視」と名を改めさせ、後継者に据えてしまいます。

しかし、その翌年、富子が実子・義尚を産んでしまうからさぁ大変。

ここで義政が
「すぐ息子に継がせるのも無理だし、コイツが育ち上がるまで頼んだぞ弟よ!b」
とか言ってくれればよかったのですが、
逆に
「やっぱり息子に直接継がせたいなー……弟邪魔だなー……(チラッチラッ)」
みたいな態度を取ったせいで、話が急激にややこしくなってしまいます。

さらに管領の山名宗全(持豊)と細川勝元の対立が乗っかり、諸大名が絡んで京都がドッタンバッタン大騒ぎになるわけです。
もう二人で相撲か将棋でもやって決めればいいんじゃないですかね……。

この状況に対し、義政は「一抜けた」と言わんばかりにトンズラを始めるのです。

 

もはや職務放棄で引退&銀閣寺の下準備

山名と細川の対立を仲裁もせず、トラブルはもうイヤ!

とばかりに職務放棄を始めた義政。
乱の真っ只中である文明五年(1473年)、息子の足利義尚へ将軍職を譲り、ご隠居様になってしまいます。

さらに十年後には京都・東山に山荘を作りました。トラブルを放置する気満々です。

京都の中心部が大炎上しているというのに、完全に逃げているわけでもなく、ギリギリ洛外になるかならないかのあたりを選んでいるところがまた絶妙なんすよね。

「僕は関係ないから戦火になんて巻き込まれないよ^^」
みたいな?

出家して銀閣(慈照寺銀閣)を作ったのはその後の話です。

ちなみに、息子の9代将軍・足利義尚のほうが陣中で先に亡くなってしまったので、義政もほんの僅かな間政務へ復帰します。
「僅か」だった理由は、その8ヶ月後に義政も病死してしまうからです。
享年56。

当時の寿命としては早くはありませんが、この経緯だと何だか
「嫌な仕事に復帰させられたせいで命が縮んだ」
ように見えてしまいますね……どんだけー。

 

功績は、一応2つ、ありまして

義政が行ったことの中で、功績と呼べるものは二つです。

一つは言わずもがな、【東山文化】です。

庭師の善阿弥、狩野派の絵師・狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥など、義政がパトロンとなって活躍した芸術家はたくさんいました。
床の間に生花などを飾り、書院で茶を嗜む風習が生まれたのも、義政が好んだ様式からだとか。

また、義政が自ら猿楽を見に行ったため、能が発展するきっかけにもなったといわれています。

もう一つは、勘合貿易の復活です。

三代・義満が始め、四代・義持が中断し、六代・義教が再開したものの、七代・義勝がすぐに亡くなったせいで混乱が起き、義政が宝徳三年(1451年)に二度目の再開をさせていました。
ここから明との貿易は16世紀半ばまで続き、大陸からの文化伝達と財政が活発化しています。

足利義満/wikipediaより引用

もちろん、東山文化にも影響を与えているというか、義政はそのお金で芸術家のパトロンになれたというか……。
義政が真面目に将軍をやっていた頃は、室町幕府の運営費用になっていたようですけれども。

そんな有様なので、貿易の実権も細川氏や大内氏に奪われてしまい、結果として足利氏もビンボーになってしまいました。

貿易を通じて禅僧を招いたこともあったのですから、せめて政治に関する意見を求めるなり、貞観政要(※)の講義を頼むなり、いろいろとできることはあったはずなんですけどね。

応仁の乱を避けるためには、「義政が最後まで政務への情熱を失わないこと」がキーだったのかもしれません。
それはそれで無理ゲー臭がしますが……。

 

三節会

義政が亡くなったのが1月7日だったため、朝廷の新年行事の一つ・白馬の節会(あおうまのせちえ・魔除けになるとされていた白い馬を天皇の御前に引き出し、宴をする)が中止になりました。

さらに、翌年の同じ日に義政の弟・義視が亡くなり、二年連続で白馬の節会だけが行えなかったそうで……。
当時は呪詛が信じられていた時代ですから、魔除けにもそれ相応の重要性と意味があって大事なものでした。

ついでにいうと、白馬の節会を含めた正月の三つの行事を「三節会」といいます。

これらは応仁の乱で中断しており、この年になって久々に再開することになっていました。
寿命は操作できませんから、仕方のないこととはいえ、当時の公家たちは「最後の最後まで迷惑をかける兄弟だな(#^ω^)」という気分だったでしょうね。

ここから先の将軍はますます影が薄くなり、入れ替わるように戦国大名と愉快な武将たちの力と人気が高まる時代に入っていきます。

……が、その辺の記事はこのサイト中にもたくさんありますので、このシリーズでは次回からも歴史の流れや要所要所の戦を優先してお話して参ります。

長月 七紀・記

※貞観政要(じょうがんせいよう)…唐の太宗の政治に関する言行を記録した本で、帝王学の教科書として使われていた。
日本には平安時代に伝わっており、一条天皇や北条政子が講義を受けたことがある。徳川家康が熱心に研究したことでも有名。

【参考】
国史大辞典「足利義政」
足利義政/Wikipedia

 



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