鎌倉・室町時代

赤松満祐は嘉吉の乱後にナゼ討たれた?将軍・足利義教の暗殺には成功したはず

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義教の首を掲げながら堂々と播磨に帰った

真っ先に逃げた細川持之は批判を浴びながらもすぐ冷静さを取り戻し、直ちに参内して朝廷へ事の次第を報告しています。
この後グダグダになるせいで忘れがちですけど、ここまでの細川氏は皆優秀なんですよね。

そしてしばらくは
「こんなことをするからには、赤松に味方する大名が既に兵の準備をしているに違いない」
と考え、固く屋敷の門を閉ざして事態を静観していました。

持之だけでなく、生き延びた大名の大多数がそうでした。

そのため、持之は「仕事遅すぎwww」(超訳)と世間の嘲笑を浴びたのですが、全く想定していない事態に遭遇して「そうだ、参内しよう」と思いついて実行したところは評価していいんじゃないですかね。
こういうときって、どっちが先に大義名分を得られるか?というのが政治的に重要です。

一方、赤松氏のほうでは
「将軍を討ったのだから、すぐ討伐軍がやってくるに違いない。そのときは潔く皆で腹を切ろう」
と考え、その準備をしていたようです。

しかし、しばらくしても討手が来ない。
『なんで?』
と、不思議に思いながらも満祐らは、義教の首を掲げて堂々と播磨に帰ります。

妨害する大名が誰もいなかった、というのが実にマズイですね。
もしもここで、誰かが義教の首を取り返しに走っていたら、その人の権威は将軍家よりも高まったでしょうに。

このことから、義教の人望のなさがわかってしまうのが何とも悲しいものです。
似たような事件としてよく比較される本能寺の変の直後には、嫡子の信忠をはじめ、信長を慕っていた人のそれらしい行動がたくさん伝わっています。

 

将軍が討たれたのは自業自得といえよう

持之が参内したこともあってか、義教暗殺のことは公家社会にも即座に広まりました。

伏見宮貞成親王(後花園天皇の父)の日記『看聞日記』には、
「本当は将軍が赤松を討つ予定だったのが、察知されて逆に将軍が討たれてしまったそうだ。自業自得といえよう。将軍ともあろう者がこのような犬死をするとは、古来聞いたことがない」
と記されています。

源氏に視点を広げれば、風呂場で殺された人は数人いるんですけどね。
まあ、入浴中は本人も丸腰ですし、他に人がいても武装してないお付きが一人か二人程度でしょうから、討たれても仕方ない面もあります。

嘉吉の乱の場合、その場に多くの大名や警護がいたにもかかわらず、真っ先に将軍が討たれてしまうので、こっちのほうが恥ですかね。

しばらくの混乱の後、幕府はまず管領・細川持之らが義教の子・義勝を新たな将軍に据え、7月に赤松氏追討の軍を起こしました。既に一週間近く経っていますが、新将軍擁立と軍備を両方やった期間としてはまずまずの早さではないでしょうか。

同時に、赤松氏に向けて義教の首の返還を求める使者が立ちました。
満祐は本願を達成できた満足感からか、あっさり返しています。幕府は首が帰ってきてから、等持院で義教の葬儀を行いました。

 

山名がなかなか動かん! それどころか略奪しよる!

追討軍は
・山陽道側が細川持常
・山陰道側は山名持豊
を大将とすることに決まりました。

嘉吉の乱・進軍経路/map by 味っ子 wikipediaより引用

が、持豊がなかなか重い腰を上げません。
しかもその間に、山名軍の兵士が京の土倉・質屋を襲って略奪を働いています。たぶん日頃から借金のあった兵が、徴発を名目として手荒なことをしたのでしょう。

さすがにこれはまずい。
管領・細川持之が「アンタの部下が町を荒らしたって聞いたけど、監督どうなってんだ!」(※イメージです)と苦情を送っています。

持豊は、それでもすぐには対応せず、持之に「この際、アンタの家もまとめて討ってやろうか!」とブチ切れられて、ようやく数日後に謝罪しました。

ちなみに、持豊が京を出発したのは7月28日です。
先行していた一族の山名教清や細川持常らは真面目に進軍していたのに、持豊が動かないせいで予定がずれ込んでいます。
そうやって対応が遅いから、
「実は持豊もグルだったんじゃないか」
とかいわれるんやで(´・ω・`)

一方、討たれる側の満祐は幕府に対抗するための“神輿”を掘り出してきていました。

足利直冬(足利尊氏の庶子で足利直義の養子/観応の擾乱で直義方についていた人)の孫・足利義尊を探し出し、新たな将軍候補に担ぎ上げたのです。
たぶん満祐は、本当に義教憎さで事に及んだのでしょう。
でなければ、先に担ぎ上げる人物を決めていたはず。

 

朝廷に綸旨を認められ幕府が大義名分をゲット

討伐軍が西へ向かっている間。
足利持之は後花園天皇へ赤松氏征伐の治罰綸旨を求め、認められています。

これが認められれば、名実ともに赤松氏は朝敵。
幕府側が大義名分を得ることができます。

公家の中には
「そうはいっても、義教はやりすぎだったから自業自得じゃないか」
「この場合、赤松氏は朝敵とまではいえない。武家の私闘に綸旨は無用」
といった理由で、綸旨を与えることに反対する者もいたようです。

最終的には後花園天皇が綸旨を出すことを認めたため、さほど抑止にはならなかったのでしょうね。

藤原北家の血を引く正親町三条実雅が被害者の一人だったことも、理由のひとつなのかもしれません。もしも義教暗殺の場に公家が一人もいなかったとしたら、朝廷にとっては完全に他人事ですから。

また、この裏で村上源氏の久我清通が「源氏長者」の地位を得るべく策動していました。

源氏長者はその名の通り、公家・武家を問わず本姓を源氏とする者の中で一番官位が高い人のことで、源氏全体の長としてさまざまな祭祀や裁判などの権利を持ちます。

足利義満がこれを受けて以来、ずっと足利家が源氏長者の地位を世襲していたのです。
公家の源氏からすると「あんな野蛮な奴らに長者の地位を渡しっぱなしでいられるか!」となるわけです。公家は特にそういうの大事にしますからね。

念願叶って、赤松氏の討伐が終わった後、この年の11月2日に清通は源氏長者になります。
ただし、その後しばらくして足利義政が源氏長者になるので、あまり変わりませんでした。残念っ!

 

北畠を頼って断られ、伊勢で自害

さて、8月半ばに赤松氏討伐軍は足並みをそろえられるようになり、満祐らを半月程度で追い詰めて切腹させ、乱は割とあっさり収束しました。

満祐の首は、義教の遺児に見せられた後、四条河原で晒されています。

遺児とは、おそらく
足利義勝
・足利政知
・足利義政
でしょう。足利義視はこの時点で二歳なので、見たとしても覚えていないと思われます。

また、満祐の嫡子・赤松教康は、城を脱出して伊勢の北畠教具(のりとも)を頼りましたが、最終的には拒否されて伊勢で自害。
教康の首級も京都に送られ、幕府によって赤松氏の屋敷跡で晒されました。

もっと早く動けば、さらに早く片付いたんじゃないかと思うのですが、自信があったから山名持豊もノンビリしてたんですかね。

こうして【播磨・美作・備前】の守護だった赤松氏は潰滅状態になり、戦後、一番美味しいところを持っていったのが持豊を含めた山名氏でした。

赤松氏の旧領はほとんど山名氏に与えられています。
具体的には、持豊に播磨、山名教清に美作、山名教之に備前の守護職が任され、力が強まりました。

後世からみれば、嘉吉の乱は
「トップを殺しただけで天下は取れない」
という典型例ともいえましょう。
満祐は義教を殺せれば良いと思っていたフシがあるので、天下を意識していたかどうかは怪しいところですが。

その点、三好三人衆と松永久秀らによる十三代将軍・足利義輝の暗殺事件【永禄の変】や、お馴染み【本能寺の変】などと比較するのもまた面白いところです。
ほぼ同じことをやっているのに、その後の展開がまるで違いますからね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「嘉吉の乱」
嘉吉の乱/wikipedia(→link

 



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