建仁元年(1201年)3月24日は、千葉常胤(つねたね)が亡くなった日です。
その名の通り、現在の千葉県に勢力を築いていた家ですが、世間一般の知名度は決して高いとはいえません。
千葉氏とはそもそもどんな一族なのか?
その点からざっくりと振り返ってみましょう。

千葉氏の月星/wikipediaより引用
本題とは関係ありませんが、千葉氏の紋「月星」がなかなかカッコイイです。
ぶっちゃけ今の千葉県のロゴよりこっちがいいとか……ゲフンゴホン。
お好きな項目に飛べる目次
石橋山の戦いで敗れた頼朝が助力を求む
千葉氏の始まりは、平忠常の子孫・常長が現在の千葉市緑区に本拠を築いたことだとされています。
-
-
平忠常の乱は道長四天王にシメられ……しかし一族は東国で子孫繁栄!
続きを見る
その後、一族が下総(現・千葉県北部)に進出していき、やがて千葉氏と上総氏の二つの家に分かれました。
千葉氏は現在の千葉市中央区亥鼻(いのはな・当時は”猪鼻”)に館を築き、本拠を移しています。

千葉常胤/wikipediaより引用
ちなみに、現在ここにある「千葉城」「猪鼻(亥鼻)城」は昭和になってから千葉市郷土館(現・千葉市立郷土博物館)として作られたものなので、当時の遺構ではありません。※TOP画像が千葉城と千葉常胤像
まぁ鎌倉幕府以降戦乱が絶えず、さらに地震雷火事(親父)が揃い踏みの関東で、平安期の遺構が残る……というのは、そもそも無理ゲーですよね。
それに、この手のものを木造で再現しようとすると、とんでもないお金がかかるので仕方ありません。
上総氏とは同族でありながら枝分かれしたという経緯上、両者は争いが多く、また佐竹氏とは相馬御厨(伊勢神宮に寄進した荘園で、現在の茨城県~千葉県にあったところ)を巡って対立しました。
保元や平治の争乱でも源氏と関わりが
こうしたジタバタの中、頼朝が治承四年(1180年)に平氏打倒に向けて挙兵。
緒戦の「石橋山の戦い」で敗れ、源頼朝が安房にやってきた時、協力を求めたのが当時の千葉氏当主・常胤でした。
-
-
源頼朝53年の生涯まとめ! 出生から鎌倉幕府の設立 死因 その素顔に迫る
続きを見る
おおざっぱにいうと、この時点では「都での争いに敗れて降ってきた御曹子が、地元の有力者の力を借りて盛り返そうとした」という構図でしょうか。
実は、源氏と千葉氏にはここまでの間にいくつかの接点がありました。
常胤の父・平常重と源頼朝の父・源義朝は、以前、相馬御厨を巡る争いで関わったことがあります。
また、保元の乱(後白河天皇vs崇徳上皇)でも常胤は義朝についていましたし、平治の乱で義朝方が敗死した後は、常胤が義朝の大叔父の息子・頼隆を養育しています。
頼朝がこの辺の経緯を知っていたかどうかは分かりませんが、どちらにしろ浅からぬ縁がある家同士ということになります。
-
-
保元の乱がわかる!平安時代版「関が原の戦い」と考えればよいのだ
続きを見る
こうして源氏についた常胤は、現在の市川市国府台を拠点にしていた平家方の代官を討って、本格的に源氏軍の一員となりました。
しかし、その間に千葉氏の本拠を平家方の藤原親政に襲われていたりします。最終的に常胤が勝ったものの、肝をつぶしたでしょうね。
一ノ谷や九州で武功を挙げ東北にも所領を得る
常胤の源氏方内部での立場は、あくまで御家人の一人というものでした。
源範頼軍に属して一ノ谷の戦いや九州での緒戦で武功を挙げています。
京の警護や奥州合戦へも参加しており、その褒美として東北で幾つかの領地を得たとされています。
また、頼朝が千葉方面から葛西家の拠点である武蔵に入るとき、船を用立てたのが千葉氏・上総氏だったとか。
これが縁となったのでしょうか。常胤と葛西清元・葛西清重親子とは親交があったらしく、香取神宮造営でも協力したようです。
-
-
頼朝に逆らい許された名将・葛西清重! 奥州総奉行を任ぜられる
続きを見る
当時の推定図からすると、常胤の地元・千葉と鎌倉の町の作りが似ている(北端に寺社があり、そこから南北に大きな道を作っている)ことから、常胤が鎌倉建設に献策したのではという説もあるとかないとか。
この辺を総合して考えると、頼朝から見た常胤は「派手な功績はないが、そつなくいろいろな仕事がデキるヤツ」といった印象だったのかもしれません。
※続きは【次のページへ】をclick!