北条時宗/wikipediaより引用

鎌倉・室町

北条時宗~モンゴルに勝った八代目執権は34年の短き生涯~死因はストレス?

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合戦準備中に内輪揉め【二月騒動】起きる

こうして幕府は、各地の田畑に関する台帳を作って兵糧の準備をしたり、前線になるであろう九州の沿岸警備(異国警固番役)を強化したり、来るべき日に備えます。

元への返事を出さなかったのは、断固として服従を拒む意志を見せるとともに、曖昧な状態を長くしておくことで、準備のための時間を稼ぐのが目的だったのかもしれませんね。

が、その準備中に鎌倉幕府の内部でドンパチが起きてしまいます。

【二月騒動】と呼ばれる、北条氏の内紛です。

「外国が迫っているときに仲間割れしてる場合か!」とツッコミたくなりますが、そもそも歴史を辿れば、幕府の創設者・源氏からして……(´・ω・`)

二月騒動の中心になったとされるのは、時宗の庶兄である北条時輔です。

彼は六波羅探題南方を務めていました。

しかし、同職北方に就いていた北条時茂(二代執権・義時の孫/極楽寺流)が文永七年(1270年)に亡くなって以降、後任が来なかったため、京都では時輔の勢力が強まっていたのです。

さらに、得宗家への反発心が強かった北条教時(二代執権・義時の孫/名越流)という人が恨みをつのらせていました。

名越流は九州の守護職を多く務める家でしたが、かつて宮騒動の際に長兄・光時が伊豆に配流されていたことなどをきっかけとして、得宗家に恨みがあったようです。

また、教時は前将軍・宗尊親王の側近でもあったため、余計に得宗家に対する不満が溜まっていました。

彼らの謀反を事前に察知した……として、時宗が御内人(得宗家に仕えている武士)を派遣し、誅殺したといわれています。

が、無関係だった教時の兄・時章までブッコロしてしまっているあたり、どちらかというと謀反云々ではなく、

「元を相手に戦をしないといけないのに、身内の不穏分子をほっといたら何されるかわからん。いっそブッコロしてスッキリさせよう」

という考えのようにも思えますね。

あまりにもその死があっけなかったためか、時輔には生存説もあったようです。

大河ドラマ『北条時宗』では生存説を採用し、元との対立を平和的に解決するため暗躍する、という役回りになっていましたね。

源義経真田幸村など、生存説はだいたいヒロイックな話になりますが、大河ドラマでの時輔はなかなか特殊で斬新でした。

 

朝廷でも皇太子問題ががが……

こうして、内部の憂いがほぼなくなった鎌倉幕府でしたが……。

京都では別の問題を作り出すことになります。

この頃、鎌倉幕府にとっての前将軍・宗尊親王の父、後嵯峨法皇が崩御しました。

後嵯峨法皇には数多くの子女がおり、中宮生まれの皇子も二人成人していたため、皇位継承には問題ないかに思われたのですが……。

後嵯峨天皇/wikipediaより引用

後嵯峨法皇が、長子である後深草天皇よりも、次男である亀山天皇を何かとひいきし、次の皇太子を亀山天皇の皇子・世仁親王としてしまいました。

後深草天皇には、世仁親王より年長の皇子がいたにもかかわらず、です。

当然、後深草天皇は後嵯峨法皇を深く恨みました。

その恨みが解けないまま、後嵯峨法皇が崩御してしまったものですから、さあ大変。

しかも、世仁親王以降の皇位継承のことや、治天の君の座をどうするか、については「幕府に任せるからヨロシク^^」(※イメージです)と丸投げしただけで、何の意思も示しませんでした。

これには、朝廷も幕府も大いに困りました。

 

おまけに日蓮宗の開祖・日蓮までややこしや

まずは朝廷から幕府へ連絡が送られますが、幕府としても勝手な判断はできません。

そこで後嵯峨法皇の中宮であり、後深草天皇・亀山天皇両者の母親でもある大宮院(おおみやいん)にお伺いを立てることにしました。

最初から、朝廷のほうで大宮院の意向を確認して、それから幕府に連絡したほうが無駄がなかったんじゃ……?とツッコミたくなるのは野暮ですかね。

大宮院はやはり「亀山天皇の血筋を続けていくのが故院の意思かと思います」との返事。

こうして幕府は亀山天皇側につき、世仁親王が後宇多天皇として即位します。亀山天皇は上皇となり、治天の君として政治を執り行うようになりました。

まあ、これで後深草天皇側が黙っているわけがないのですが……。

次に事態が大きく動くのは元寇の後のことなので、ここで一区切りとしましょう。

ついでにいうと、ほぼ同時期に日蓮宗の開祖・日蓮

「今の仏教と世の中はここがなってない!!」(超訳)

というようなことを立正安国論などで主張し、世間を(いろんな意味で)賑わせていました。

日蓮/wikipediaより引用

時宗からすれば「この忙しいときに人心を惑わすんじゃねぇよクソ坊主(#^ω^)」(※イメージです)としか思えなかったでしょうね。

時宗は禅宗に帰依していましたので、自分の信じる宗派を否定されて気分を害したでしょうし、ただでさえ元軍の迎撃体制を整えたり、上記の皇室がらみでバタバタしていたところですし。

それでなくても、歴代の執権は激務のせいで早死にしたといわれています。

こんな歴史に残る大事件を、ほぼ同時に複数処理しなければならなかった時宗の心身に、どれほどの負担がかかったかは想像を絶する……といっていいでしょう。

時宗に子供が少なく、側室がいないのも、それどころではなかったからなのでしょうね。

忙しいからこそ癒しを求めて……というタイプの人もいますが、時宗はそうではなかったようです。

 

クビライ・カーン、いよいよ

さて、話を元寇関連に戻しましょう。

戦闘の経過などは以下に詳細がありますので、ここではざっくりとした流れをお話しますね。

元寇(文永の役・弘安の役)は実際どんな戦いだった? 神風は吹いたん?

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最初の数回は元から

「ウチの傘下になれよ。ならないとどうなるかわかってるよね?^^」(超訳)

という手紙を無視していた幕府ですが、あまりにもその回数が多いため、日本からも元の都・大都へ使者が立てられました。

元の皇帝であるクビライ・カーン(フビライ・ハーン)に謁見し、その意志を確かめようとしたのです。

クビライ・カーン(フビライ・ハーン)/wikipediaより引用

しかし、これまで返書をしなかった鎌倉幕府に対し、元のほうでは相当に不審感がつのっていました。

そのため、せっかく無事に海を渡れたというのに、日本の使者は謁見できずにトンボ返りすることになります。

この時点で、既に元の出兵が決まっていたのかもしれません。

実際、元は日本からの使者を追い返した翌年から、本格的に日本侵攻の準備を始めています。

そしていよいよ文永十一年(1274年)10月。元の大軍が数百隻の軍船が、対馬・壱岐に襲来しました

両島に赴任していた御家人らは勇戦しましたが、衆寡敵せずあえなく敗れ去り、住民のほとんどが惨殺されるか、捕虜としてさらわれるかという惨状になりました。

そのまま九州・肥前へ上陸した元軍は、ここでも似たようなことを繰り返します。
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