足利義満/wikipediaより引用

鎌倉・室町

足利義満は日本国王の称号を持つヤリ手将軍!51年の生涯をスッキリ解説

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政務を執りながら多彩な才を発揮する

このあたりから、義満の特徴である「同時期にあらゆる方向の政策を行っている」という点に着目してみると面白くなってきます。

明との交易を考える一方で、勅撰和歌集の編纂を執奏したり。

屋敷をそれまでの三条坊門から北小路室町に移して、幕府の政庁としたり。

”室町”幕府の名はここからきています。

別の場所だったら、今頃、我々もその名で同幕府を呼んでいたのかもしれません。

他には、京都市内の行政権・課税権が複雑化していたのを幕府に一元化させ、守護大名が謀反を企てても対抗できるよう、将軍直属の軍として奉公衆を設けました。

また、奉行衆という官僚組織も作っています。

夢と現実を同時に見ている……というと、ちょっと綺麗すぎますかね?

 

興福寺の宗徒が神木抱えて強訴に来よった

義満の実務能力が評価されたのでしょう。

朝廷での官位もガンガン上がっていきました。二条良基の支援を受け、公家社会の中にも積極的に入っていきます。

それがプラスに働いたのが、1378年に起きた「康暦の強訴(こうりゃくのごうそ)」という事件です。

”南朝方に”奪われた寺社領の変換を求めて、興福寺の宗徒が春日大社の神木を掲げて訴えてきたのです。

強訴というとかつて権勢を誇った白河天皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師」と並び称した延暦寺のものが有名ですが、さらに古い歴史を持つ興福寺も度々やっていました。

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興福寺は、藤原氏の祖先である鎌足と不比等にゆかりの深いお寺であり、さらに春日大社には藤原氏の祖先とされる天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られています。

つまり、興福寺が強訴をすると、藤原氏系の公家は実質的に出仕できなくなってしまうのです。

場合によってはご神木を御所の門前に放置して「神意が目に入らぬか!」みたいな態度を取ることもありました。

一応、ご神木を持ち出すにあたって儀式をするのですが、「そんだけ大事に扱うものなのに、屋外に放置するのはいいんかい!」とツッコミたくなりますね。

 

ウチら源氏だから関係ないんで^^

言わずもがな、朝廷の政務や行事のほとんどは藤原氏系の家によって成り立っています。

彼らが出てこなければどちらも滞り、世の中が立ち行かなくなってしまうわけで……。

だからこそ、強訴は朝廷にとって脅威でした。

このときもいろいろな人が頭を抱えていたと思われますが、緊迫した状況の中でただ一人、義満はどうしたか? というと……。

興福寺の強訴に対し義満は

「あ、ウチは源氏なんで^^」(※イメージです)

という理由で、堂々と出仕を続けたのだそうです。

確かにその通りなんですけど、面の皮と度胸が揃ってないとこういうことはできないですよね。

ちなみに、源氏は基本的に八幡神(誉田別命=応神天皇=八幡大菩薩)を守護神としています。そりゃ関係ないですよね。

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義満はさらに、この強訴のせいで滞っていた歌会始めなどの行事を大々的に復活させ、逆に興福寺の宗徒を威圧しました。

「オメーらの脅迫なんざ屁でもないわwww 言いたいことがあるならもっとはっきり言ってこいや!」という感じでしょうか。

そもそも、南朝方にぶんどられたのに、なぜ京都(=北朝方)へ訴えてくるのかがよくわからんところです。

この頃まだ南北朝の合一は影も形もありませんし……まさか、興福寺の面々が南北朝の事情を知らなかったはずもないでしょうし。謎だらけです。

 

 

寺とも対話を進め、バランス重視の政策で舵を取る

義満の精神攻撃は興福寺に大きな打撃を与え、以降強訴をしても京都市内までは入ってこられなくなりました。

とはいえ、義満は「ざまあwww」では済ませず、興福寺だけでなく延暦寺にも直接対話をするシステムを設けたり、寺領確保や仏事再興などにも務めてバランスを取りました。

締めるべきところは締めた、という感じですかね。

その翌年からは、幕府や守護大名に関するトラブルが増えてきます。

かつての重鎮・斯波義将が管領・細川頼之の罷免を求めてきた【康暦の政変】では、頼之をクビにして幕府の重鎮を斯波氏とその周辺人物に入れ替えました。

しかし、翌年に頼之は赦免され、幕政に復帰。

上記の強訴への対応と併せて考えてみると、

「義満は、頭に血が上っている相手をいなすのが非常にうまかった」

気がします。

立場からすれば、断固として立ち向かうこともできただろうけど、それで喪うものの多さや重さを意識していたんじゃないか、と。
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