源頼朝

近年では足利直義とも指摘される源頼朝肖像画/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源頼朝 史実の人物像に迫る!出生から鎌倉幕府の設立 死因まで53年の生涯

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伊豆での謹慎生活はかなり自由!?

清盛最大の失態は、

「伊豆を含めた東国が、基本的に源氏を支持している」

という点を忘れていたか見逃したか、あるいは軽視していたことでしょう。

実際、流罪だったとはいえ、伊豆での頼朝はかなり自由に暮らしていたと考えられています。

房総半島まで行っていたこともあるようですし、平治の乱で源氏についていた武士が伊豆までやってきて、頼朝に仕えたともされています。

また、狩りや京都にいる知人と手紙のやり取りなどもできていました。

監視はあったものの、その監視担当の伊東祐親や北条時政が頼朝に味方していたので、意味がないというか……時政の娘があの北条政子ですしね。

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現代人からすると、流罪というよりは左遷のほうが近い感じですね。

おそらく、清盛を含めた当時の勝者たちは、「東国は未開の地同然だし、京都から追い出してしまえば万事うまくいく」と考えていたのでしょう。

清盛は、平治の乱で自らの地盤が近所だったおかげで最終的な勝者になれたのですが……立場が逆になるとわからないもんなんですかね。

対して、頼朝の賢明さは、「約20年もの長きに渡って、関東でおとなしくしていた」ということです。

現代よりはるかに寿命の短かった平安時代のこと。

頼朝は33歳になっておりましたから、あと15~20年生きられるかどうか……という頃合いです。

武士ですから、ほとんど動かない公家よりは体調面で健康的だったでしょうけれども、それでも20年というのは果てしなき時間です。

 

神通力を喪いかけた清盛と後白河法皇の対立

その間、京では、平家の専横に対する不満が溜まりに溜まっていました。

平治の乱の後、清盛は、妻の時子が二条天皇の乳母だったことなどから、急速に皇室に食い込み、広大な荘園を持ち、さらには日宋貿易によって莫大な富を得ていました。

当然、武力もあります。なので、都の何もかもが平家の思い通りになっている状況だったのです。

保元・平治の乱ではあれほどのバランス感覚を見せた清盛。この頃には、その神通力も喪いかけておりました。

権力と実力と自信が揃うと、人間、随分と様変わりしてしまうものですよね、おそらくいつの世も……。

やがて、後白河法皇とその周辺から、平家打倒の方法が模索され始めます。

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まずは治承元年(1177年)に「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれる事件がありました。

簡単にいうと、「平家打倒の相談をしていたら、清盛側にリークされて関係者が全員処分された」というものです。清盛によるデッチ上げという説もありますが、何ともいえません。

次は、後白河法皇自身が強引な方法に出ました。

清盛の息子や娘が若くして亡くなったことにつけ込み、清盛への相談なしに彼らの荘園や領地を没収してしまったのです。

これはいくらなんでも法皇のほうが悪い話です。

当然ながら清盛は大激怒。後白河法皇を幽閉して、権力を行使できないようにしました。

これが【治承三年の政変】です。

しかし、日頃から恨みを買っていた清盛が、治天の君(天皇・上皇・法皇の中で、実際に政治を行っている人)を幽閉したことは、さらに反・平家の機運を高めます。

治承四年(1180年)、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵。

彼自身は中央で兵を挙げたため、すぐに敗れてしまいましたが、時間差で各地の武士に「一緒に平家を倒そうぜ!」(超訳)という内容の令旨(命令書のこと)が送られました。

そしてその一つが、源行家(頼朝たちの叔父)によって伊豆にも届けられたのでした。

 

頼朝、ついに立ち上がる 目指したのは鎌倉だったが……

それまでの20年でスッカリ周辺の信用を得ていた頼朝。伊豆や相模の武士をまとめて挙兵します。

まずは遠い先祖で河内源氏の二代目だった源頼義(よりよし)以来の縁(ゆかり)の地・鎌倉を目指します。

しかし、このときは脆くも失敗。

石橋山の戦いで平家方に敗れ、海路で安房まで逃げ延びました。頼朝一行はたった10人程度だったそうですから、ボロ負けっぷりがわかろうというものです。

逃げた頼朝たちを助けたのは、地元の平野仁右衛門という人でした。

とある島の洞窟に彼らを匿い、頼朝はその恩を忘れず、後に仁右衛門へ島をまるごと与えております。そのためこの島は「仁右衛門島」と呼ばれるようになり、現代もそのご子孫一家が暮らしています。

凄い歴史ですね。なんだか現地を訪れたくなりました。

とりあえずグーグルマップを貼り付けておきますのでご興味のある方はどうぞ。

 

北条氏や三浦氏、さらには上総氏や千葉氏の力を借り

緒戦に敗れた頼朝は、もちろんそれぐらいでは諦めません。

再び北条時政や三浦義澄らと合流し、兵力を補充するため、上総広常(ひろつね)や千葉常胤(つねたね)に協力を求めます。

いずれも桓武平氏の流れを汲む家系で、その名の通り千葉の有力な豪族でした。

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千葉広常は平治の乱で義朝の長男・源義平に与していたにもかかわらず、戦後の追手をかいくぐって千葉まで戻ってきたという剛の者です。

これ、豊臣秀吉の「中国大返し」や徳川家康の「神君伊賀越え」より地味にスゴイかもしれません。

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一方、千葉常胤は、平治の乱には参加していなかったようです。

が、頼朝の親戚にあたる頼隆(※生後二ヶ月足らず)の見張り(という名のお守り)をしていた関係で、心情的には源氏寄りでした。

彼らの協力を得た頼朝は、西へ進んで葛西清重などの武蔵周辺の武士を組み入れ、とうとう鎌倉に入ります。

武士にとって「父祖の地」は家や血筋と同じくらい大切なものです。頼朝軍の士気は最高潮に達したことでしょう。

ただ、この頃になると、頼朝の動きは京都にも知られていました。

諸々の理由で隠居したかったのにできなかった清盛は、直ちに息子・維盛を総大将とした討伐軍を派遣。

しかし平家軍は、治承四年(1180年)10月、戦わないで有名な富士川の戦いで「命からがら逃げ帰る」という大失態をしでかします。アチャー(ノ∀`)どころの話ではありません。

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頼朝はこれを知って直ちに西上を進めようとしました。

が、常胤たちに「まずは関東を押さえて、背後の憂いをなくしたほうがいいですよ」(意訳)と言われ、思い直します。

そして年明けまでの間に地固めとして、常陸の佐竹氏や上野の新田氏を服属させるなどし、関東をほとんど自分のシマにしてしまいました。

また、侍所(さむらいどころ)・問注所(もんちゅうじょ)などの機関を作り、家中の統制も図っています。

この辺が「頼朝は武士というより政治家だ」とされる理由でしょう。平家との戦いでは戦場に行っていないから、というのもありますが。

ちなみに富士川の戦(わな)いの翌日、あの源義経が頼朝の元にやってきています。

彼視点の記事は以下にございますのでよろしければ併せてご覧ください(記事末にもリンクあります)。

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