梶原景時

梶原景時/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

梶原景時は頼朝に最も信頼された武将!大河・鎌倉殿の13人で中村獅童

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトルになった「十三人」とは?

文字通り有力な御家人13名を指します。

政治家タイプから武人タイプまで、様々な人がいる中で、最も有名な一人は梶原景時でしょう。

なぜなら源義経との逸話が複数あるからです。

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義経には判官贔屓(ほうがんびいき)の法則が発動するせいか。

フィクションでの景時は、往々にして悪役として描かれることが多いですが、合議制に選ばれるだけあって優秀な人物。

というか頼朝に最も信頼された側近の一人と言ってもよいでしょう。

本稿では、そんな彼の生涯を追いかけてみます!

 

梶原景時 石橋山の戦いで頼朝を逃がす

梶原景時の生年や幼少期の詳細は不明。

武士として当初は源頼朝の家臣ではなく、相模の武将・大庭景親(おおばかげちか)に仕えていたとされています。

大庭氏も梶原氏も【後三年の役】の頃は源義家の家臣でした。

しかし【平治の乱】で源義朝が敗死すると、時勢の変化により平家方へ。

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そのため頼朝が挙兵した後の治承四年(1180年)8月、近隣の武士を率いて頼朝と戦い、これを破ります。

俗に言う【石橋山の戦い】ですね。

このとき平家物語の「敦盛の最期」で知られる熊谷直実も大庭軍に加わっています。

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敗れた源氏軍は散り散りになって山中へ逃げ、景時らにも頼朝捜索の命が下りました。

ところが、です。

頼朝の居場所を知った景時は、何らかの理由で大庭景親にこのことを伏せておきます。

歴史書『吾妻鏡』などでは「景時はわざと平家方を別の山に導いた」とされ、忠義の現れであるという事になっています。

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ただ、なぜそうしたのか、直接の理由は不明。

愚管抄』では、治承四年から景時は頼朝に従っていたとされ、そのため「挙兵時から源氏方だったのでは?」という見方もありますが、これは少し怪しいです。

なぜなら石橋山の戦いは8月(新暦9月)なので、この合戦後、頼朝に仕えたとしても、治承四年の内であることは変わりません。

それにもし挙兵当時から景時が源氏方だったのなら、「最初から味方だった」と記しておけばよく、「頼朝をかばった」なんて逸話も生まれにくいはずです。

仕えた時期の話はここまでにして、先へ進めましょう。

 

頼朝の御家人に

石橋山の戦いに敗れた頼朝は、いったん安房へ逃亡。

房総半島や武蔵の武士たちを味方につけて鎌倉へ向かいます。

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そこで頼朝は平維盛(たいらのこれもり)率いる平氏軍を撃破し、捕らえた大庭景親を斬首に処します。

景時は降伏。

養和元年(1181年)正月に頼朝と対面を果たすと、晴れて御家人の一人となりました。

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景時は当時の武士としては珍しく教養もあり、弁も立ったため、頼朝に重宝されるようになっていきます。

忠義心も確かで、寿永二年(1183年)12月には、頼朝の命を受けて上総広常を暗殺しました。

なんでも「二人で双六を打っているときに盤を乗り越えて首をかききった」のだそうです。

広常に謀反の疑いがあったため頼朝が先手を打ったのですが、後に疑いが晴れ、頼朝は後悔したといいます。

景時の反応は伝わっていないので、割り切っていたのでしょうか。

一方で、こんな見方もあります。

「広常は平家打倒よりも関東での自立が望ましいと考えており、そのための兵力も持っていたため、謀反の疑いがなくても頼朝に処分されたのではないか」

そういう疑い深すぎるところが、後に源氏の自滅を招くのですが……。

 

宇治川の戦い

寿永三年(1184年)正月、景時父子は源義仲討伐軍に組み込まれ、【宇治川の戦い】に参陣しました。

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景時の嫡男・梶原景季(かげすえ)は義経配下となり、佐々木高綱と先陣を争って武名を上げています。

【宇治川の先陣争い】という有名なエピソードですね。

この戦は、景時が自らの能力を頼朝にアピールするきっかけにもなりました。

というのも、源義経や源範頼など、多くの武将たちが勝利を知らせる報告に終始したのに対し、景時だけが義仲の最期や自軍の戦功について事細かに記していたというのです。

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現地にいない頼朝としては、できるだけ公正な恩賞で、御家人たちの信頼に応えたい時期。

景時がそこまで考えていたか不明ですが、少しでも多くの情報が欲しかったはずだけに、さぞかし頼りになったことでしょう。

しかし翌月【一ノ谷の戦い】では、直前に妙なエピソードが伝わっています。

当初は景時が義経の下に、土肥実平(どひさねひら)が範頼の配下に就く予定でしたが、反りが合わず配置を交換したというのです。

【当初の配置】

源義経

梶原景時

源範頼

土肥実平

【直前の配置】

源義経

土肥実平

源範頼

梶原景時

土肥実平は相模の有力豪族・中村氏の一員とされる人。中村一族は当初から結束力が強く、頼朝挙兵の際も一族団結して馳せ参じたといいます。

ただ、それでいて熱狂的というわけでもなく、実平は状況を冷静に判断する目も持っていました。

例えば『吾妻鏡』によれば、頼朝が石橋山の戦いで惨敗した後、

「どこまでもお供します!」

と主張する他の武士に対し、実平は

「分散して逃げたほうが見つかりにくくなります」

と主張したとか。

当時は敵だった景時が頼朝を発見したにもかかわらず、見逃したのはこのやりとりの後だったようで、実平が忠義心と実利の感覚に優れていたのがわかります。

景時と実平の関係は不明なれど、当時、石橋山の話をしたこともあったかもしれませんし、いくらか親しみも持ち合わせていたのでは?

でなければ、戦の直前に所属の入れ替えも難しいでしょう。

 

一ノ谷の戦い

隠して景時は範頼に従い、実平は義経の配下となって一ノ谷へ。

範頼は大手軍(正面)、義経は搦手軍(裏手)の担当となります。

景時は息子の景季・景高とともに、生田口を守っていた平知盛と戦いました。

最初は互いに激しく矢を射かけ合い、その後平家軍が打って出てきて白兵戦へ移行。

景時親子は矢の飛び交う中を突撃し、【梶原の二度駆け】と賞される戦い振りを見せます。

大手軍が激闘を演じる中で、これまた非常に有名な義経の襲撃【鵯越の逆落とし】が決まり、源氏軍が大勝を収めました。

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景時は平重衡を捕らえ、護送のために一旦鎌倉へ戻っています。

土肥実平も同時期に鎌倉へ戻ったらしく、2月18日には景時と共に【播磨・備前・美作・備中・備後5か国】の守護に任じられました。

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中国地方の概ね山陽道側の東半分+αですね。

頼朝は彼ら二人を範頼・義経の目付役として扱っており、信頼のほどがうかがえます。

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