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【二階堂行政】
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永福寺が“二階建て”に見えたから……
奥州合戦に関連して命を落とした人々の霊を慰めるため、頼朝は永福寺の建立を発願しました。
そこでも二階堂行政が三善善信・藤原俊兼とともに造営奉行に任じられています。
工事は順調に進み、建久三年(1192年)11月25日には落慶供養を実施。
このお寺は二階建てのように見えたため、いつしか”二階堂”というあだ名がつけられ……ようやく名字の由来が出てきましたね。
行政の屋敷が、この永福寺の近辺にあったため、子孫が二階堂氏を名乗るようになったのです。
残念ながら永福寺は、応永12年(1405年)の火災で燃えてしまい、それをきっかけに廃絶したため、今日ではその面影を偲ぶことも難しくなっています。
鎌倉の寺院はこういった例が多いですね……。
話を少し戻しまして。
建久元年(1190年)秋、頼朝が上洛することになったため、行政をはじめとして、鎌倉の人々は忙しく準備を始めます。
まず9月15日、道中の諸々に関する担当者を決められました。
二階堂行政は頼朝の右筆(ゆうひつ・手紙を書く人)である一品房昌寛(いっぴんぼうしょうかん)と共に、院への進物を担当。
同月21日には、上洛している間の鎌倉警備について割当が決まり、行政が指導を務めました。
そこから出発~入京までは行政に関する記述が一旦なくなり、12月4日に
「頼朝から京都の多くの寺社へ絹が寄付され、その実務を二階堂行政と中原親能、一品房昌寛が務めた」
と記されています。
中原親能(ちかよし)は大江広元の兄で、行政と同じく文官として頼朝に仕えていた人ですね。
公文所が政所に変更 その次官に
行政はこの後も鶴岡八幡宮の工事や儀式、その他裁判や訴訟の場面で多く登場します。
広元や善信が本人の言動を書き留められているのに対し、行政が他の人々の言動や、記録・書面を記す役として登場することがほとんどです。
忠実な書記といった働き方は、生涯変わらなかったのではないでしょうか。
次に登場するのは、建久二年(1191年)1月15日。
この日、公文所が政所(まんどころ)と改められました。
これに伴って、問注所(もんちゅうじょ)や侍所(さむらいどころ)、公事奉行人(くじぶぎょうにん)などが任命し直されています。
もちろん主要人物の顔ぶれは変わっておらず、大江広元が政所別当、行政がその次官、問注所執事に三善康信などが担当。
公文所の寄人だった中原親能は、新設された公事奉行人になっています。
この時期はまだまだ、京都出身者の割合が高いですね。
同年10月25日には、鶴岡八幡宮の遷宮(せんぐう)に伴う実務について、行政や善信などが話し合い、頼朝に報告したと書かれています。
八幡宮の別当も同席し、口添えをしたとか。
また「宮人曲(みやひとぶり)」という神楽を歌う役として、当時一番の名人と呼ばれた多好方(おおのよしかた)を京都から呼ぶことがありました。
このとき、好方が京都へ帰る際の餞別を行政らが手配しています。
相変わらず地味……と思われるかもしれませんが、合戦が終わり、政権の安定には欠かせない役目なんですよね。もう少しお付き合いください。
翌建久三年(1192年)には後白河法皇が薨去し、鎌倉でも35日法要や四十九日法要が執り行われました。
この件についても、僧侶への指示やお布施の手配を行政が請け負っています。
共に働いたのは頼朝の右筆・中原仲業(なかはらなかなり)。
仲業は中原親能(ちかよし)の家人でしたが、彼もまた行政や親能と同様、文官不足の鎌倉において、さまざまな役割を受け持った人です。
頼朝が行政邸を訪問した
源頼朝が行政の家を訪れたこともあります。
建久三年(1192年)8月24日、二階堂永福寺の庭に、池を掘らせる工事がありました。
頼朝はこの工事を監督するため、前日から近隣にある行政の屋敷に宿泊したのです。
工事が始まると、一丈(3m)ほどの石を畠山重忠が一人で運んで立てたので、皆剛力ぶりに感心したとか。
時系列が前後しますが、重忠は一ノ谷の戦いで義経軍の将として戦い、かの有名な”鵯越の逆落とし”で
「大切な馬を傷つけるわけにはいかない」
といって、なんと自分が馬を担いで坂を降りたとまで言われています。
さすがに事実ではないでしょうが、重忠が怪力の持ち主だったからこそ、このような逸話が生まれたのでしょう。
工事が終わった後、頼朝は再び行政の屋敷を訪れ、宴となりました。
行政邸にどのくらい滞在したのかはわからないのですが、
「三浦義澄ら宿老たちが酒一甕(かめ)、肴一品を持ち寄ってきた」
とあるので、割合賑やかな宴だったのではないかと思われます。
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