二階堂行政

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二階堂行政(鎌倉殿の13人)史実はどんな人?頼朝の信頼厚い文官だった

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文官として頂点・政所別当に就任

地道かつ誠実に役割を勤め上げたことが評価されたのでしょう。

建久四年(1193年)、二階堂行政は「民部大夫(みんぶだゆう)」と称されるようになりました。

これ、本来は、民部省の役人の中で特別な立場にある人のことを指します。

具体的には、上から三番目の役職である大丞(たいじょう)・小丞(しょうじょう)を務めている人のうち、五位にある人を「大夫」と言ったものです。

同じく建久四年、政所の別当が複数制になった際、行政もその一人に選ばれました。

幕府の政治面における大黒柱とも言うべき大江広元と同格になったのですから、文官としてはほぼ頂点。

広元は京都に行って仕事をすることも多かったため、留守中の政所の指揮を任せられる人材として、行政が選ばれたのだと思われます。

自分の個性を磨くことって本当に大事ですね。

翌建久五年(1194年)3月9日には、行政の子・二階堂行光も政所で働き始めたことが記録されています。

ちなみに、行光の兄・二階堂行村は武人肌の人物だったようで、この後、和田合戦で戦功を立てています。

 

生没年不詳だが穏やかな死だったのでは

他の御家人同様、頼朝死去前後の動向は伝わっていません。

次に行政が登場するのは、頼朝の死から4ヶ月ほど経った建久十年(1199年)4月12日、十三人の合議制が定められた時のことです。

年齢のせいもあってか、二代将軍・源頼家時代の登場はほんのわずか。

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建仁三年(1203年)3月15日に永福寺で一切経の奉納があり、頼家が臨席した後、行政の家に立ち寄ったこと。

同じく建仁三年11月15日に鎌倉にある寺社の担当者を決め直した際、行政が薬師堂の担当者の一人に選ばれたこと。

この二点のみです。

以降の二階堂家は、息子である行村や行光ばかりで、行政の死去に関する記述すらありません。

生没年が不詳なのです。

あくまで予想ですが、薬師堂の担当に任じられて間もなく亡くなったのかもしれませんね。

建暦三年(1213年)4月28日には行政の孫・二階堂基行(もとゆき)も登場しているため、この頃には完全に世代交代していたはずですから。

どうにもスッキリしませんが、特に鎌倉時代初期においては

【記録に残らない≒畳の上で亡くなった】

といっても過言ではありません。

北条義時らの画策などにより、多くの人物が「乱」や「変」で亡くなったことを考えれば、行政の死はかなり穏やかだったのではないでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『増補 吾妻鏡の方法〈新装版〉: 事実と神話にみる中世』(→amazon
『鎌倉・室町人名事典』(→amazon

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