北条時頼

北条時頼/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

北条時頼(五代目執権)に訪れた難局 37年の生涯と堅実な政治まとめ

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道元ほか南宋の僧侶を鎌倉に招く

同時期には曹洞宗の開祖・道元を鎌倉に招いたといわれています。

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他にも南宋の僧侶を招いたことがあるため、時頼は仏教への興味関心、あるいは信仰心が他の人より高かったのかもしれません。

宝治合戦で三浦氏を半ば以上強引に排除したため、説法を聞くことで自分の考えを整理したり、冥福を祈ったりしたのでしょうか。

もしくは、僧侶たちに感銘を受けて、この後の方針を変えた……という可能性もありますね。この頃、時頼は執権になってまだ数年目、20歳そこそこの感受性豊かな年頃ですし。

とはいえ、執権という役職は情や個人的な意思だけではやっていけません。

建長三年(1252年)12月には、勝手に出家した足利泰氏(尊氏の高祖父)の所領を没収。

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さらに、謀叛の疑いで了行法師・矢作左衛門尉らを追捕処断しました。

これらの事件の背後に九条家の関与が疑われたため、五代将軍・藤原頼嗣を廃して京都に送り返しています。

時頼からすれば、「宮騒動の時は穏便に収めたのに、まだ何か企んでたのか」と思えたでしょう。

しかし、新たに将軍を据えようにも、源氏の嫡流はとっくに断絶済み。女系ながら源氏の血を引いていた九条家もダメ。

これでは、幕府という形態を続けるのも難しく思われました。

 

沽酒の一屋一壺制とは?

ここで白羽の矢が立ったのが、後嵯峨上皇の第一皇子・宗尊親王です。

宗尊親王は生まれ順こそ一番でしたが、母の身分が低かったため、皇位につくのは非常に困難な立場でした。

とはいえ、第一皇子を出家させるのもどうかということで、後嵯峨上皇も扱いに苦慮していたようです。なまじ愛息子だったために、余計悩んでいたようです。

そこに時頼からの申し出があったので、珍しく朝幕間で利害が一致し、話がまとまりました。

まあ、この後別の問題で皇室も朝廷も幕府も大揺れするんですが……それはまた後日ということで。

他に時頼が行った政治には、三つの柱があります。

御家人の奉公の緩和
例:宝治元年(1247年)12月、京都大番役を六ヵ月から三ヵ月勤番に軽減

・農民保護
例:建長三年(1252年)6月、地頭・農民間の訴訟の法を定める

・質素倹約
例:沽酒の一屋一壺制=酒屋で酒を作る量を制限し、酒の害を減らそうとした

3つ目は、禁酒令ならぬ節酒令というところですかね。

いちいち酒屋の壺を叩き割らせてまわらせたそうですが……割らなくても別の用途に使えばいいのに(´・ω・`)

これらの政策は好意的に受け止められ、時頼の時代は善政が行われていたと評価されることが多いようです。

北条氏の得宗領(本家の領地)では「時頼が変装して自ら諸国を巡り、弱きを助け強きをくじいた」というドラマの水戸黄門のような伝説まで生まれたとか。

北条氏へのゴマすりと取れなくもないですが、当時の時頼の政治に感謝していた者も少なくなかったのでしょう。たぶん。

他に「時頼が密偵を諸国に派遣していたため、話が混同された」という説もあります。こっちのほうが現実的ですね。

 

「座禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取った」

このように波乱万丈だった時頼。

心身の摩耗もまた、早いものでした。

まず最初は、康元元年(1256年)11月に赤痢にかかっています。

現代では治療可能な病気ですが、時頼の症状はかなり重かったらしく、この時点で北条長時(三代執権・泰時の弟の家系)に執権職を譲りました。

その翌日には出家しているほどですから、よほどひどい状況だったのでしょう。

が、しばらくして時頼が回復したため、実権は長時から時頼に戻りました。

それから7年後の弘長三年(1263年)11月に亡くなるまでの間、時頼は実権を持ち続けています。

37歳という若さでの死でもありました。

吾妻鏡』によれば「時頼は袈裟を纏い座禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取った」といいます。

武神である八幡神は阿弥陀如来の化身という考えもありますので、その辺からきているのか、それとも時頼が純粋に阿弥陀如来を信仰していたのか、その両方か……。

あるいは、自身のこれまでの行いを悔やんでのことか、はたまた真逆に、自分を極楽浄土へ導いてほしいという願いからなのか……どれもありそうですね。

いずれにせよ、鎌倉幕府の執権としては

「泰時ほどの聖人タイプではないが、執権・政治家としてはかなり優秀である」

といえます。

彼の息子である時宗が、元寇という未曾有の国難を乗り切れたのも、父に似たからだったのかもしれません。

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【参考】
国史大辞典「北条時頼」
北条時頼/wikipedia

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