三浦義澄

三浦義澄/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

三浦義澄は頼朝の挙兵を支えた鎌倉幕府の重鎮~史実でどんな実績が?

正治2年(1200年)1月23日は三浦義澄の命日です。

『鎌倉殿の13人』では佐藤B作さんが演じられ、北条時政(坂東彌十郎さん)の盟友として、三浦義村(山本耕史)の父親として。

なかなか存在感のあるキャラでしたが、史実でどんな事績があったのか?についてはわかりづらかったかもしれません。

三浦義澄とは一体どんな武士だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


三浦義澄は坂東八平氏の出身

三浦義澄は大治二年(1127年)、相模国三浦郡(現・神奈川県横須賀市)を根拠地とする三浦氏の一員として生まれました。

生年の近い人物としては、平清盛の正室・時子や、足利氏の初代となる源義康がいます。

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三浦氏は”坂東八平氏”と呼ばれる桓武平氏の一族でした。

簡単に血縁関係をまとめると、

【三浦氏の流れ】

桓武天皇

葛原親王

高望王

平良文

坂東八平氏(三浦氏)

となります。

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坂東八平氏には三浦氏の他にも御家人の名門としてよく登場する人々がいて、ざっと以下の通り。

◆房総半島の千葉氏・上総氏

◆武蔵周辺の秩父氏・畠山氏

◆相模周辺の梶原氏

おおまかに「鎌倉幕府創立の前から関東にいた名族たち」と捉えておくと良さそうです。

また、三浦氏の支流として和田氏がいます。

こちらも十三人の合議制に入っている和田義盛で有名ですね。

血縁関係としては、以下の図にありますように、三浦義澄が「叔父」で、和田義盛が「甥」という関係になり、

三浦義澄の話題には、甥である義盛もたびたび登場します。

ただし、義澄の前半生については、あまり記録がありません。

平治元年(1159年)【平治の乱】では、源義朝の庶長子・源義平に従っていたようですが、平家方に敗れて三浦まで落ち延びたといわれています。

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平治の乱は旧暦12月に発生。

追手と雪の厳しさが相まって、源氏方の負傷者・脱落者が少なくありませんでした。

当時十代前半だった頼朝も、途中ではぐれて捕まってしまいます。

そんな状況で逃げ切れたのですから、当時の三浦義澄はまだ目立たない存在だったのかもしれません。

この時点では数多くいる源氏サイドの一人に過ぎませんから、それが不幸中の幸いだったといえます。

 


頼朝の挙兵

長寛二年(1164年)、兄の三浦義宗が亡くなると、すぐ下の弟である三浦義澄は家督を継ぎました。

そこからしばらくは目立った記録がなく、具体的に何をしていたのかはよくわかっていません。平家が隆盛していく中で、時代に適応していたのでしょう。

そして源頼朝が挙兵。

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治承四年(1180年)に頼朝が兵を挙げると、義澄はすぐに応じていて、心情的にはずっと源氏寄りだったのではないでしょうか。

しかしこの時は運の悪いことに、頼朝の下へ向かう途中の酒匂川が増水しており、【石橋山の戦い】には間に合いませんでした。

さらに、撤退の途中で平家方についていた畠山氏の軍と遭遇。

互いに旧知の仲であることから戦を避けよう……という話になりかけたのですが、連絡の行き違いにより戦闘が始まってしまいます。

何とかその場は収まりながらも、互いに数十人の被害が出ているため、そう簡単に割り切れるものでもありません。

畠山軍としては、平家への体面も考えなければなりませんでした。

そのため畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは、翌日になって三浦氏の本拠・衣笠城まで攻め込みました。前日の疲労から回復できてない三浦・和田両氏は苦戦を強いられます。

そこで上記の系図にもいた義澄の父・三浦義明が、自ら一人で城に残ると言い、義澄らを逃すのです。

義澄以下、多くの一門衆が涙ながらに別れた……と『吾妻鏡』には書かれており、『平家物語』の延慶本では次のように記されています。

「義明が城に残ろうとするのを無理に輿に乗せて連れて行った。

しかし、途中で腰を担ぐ者たちが追手を恐れて逃げてしまい、義明は非業の死を遂げた」

さすがにこの展開では可哀想なので、吾妻鏡の説を信じたいところです。

こうして全滅を免れた三浦氏と和田氏は、舟で房総半島に渡り、態勢を整えることになりました。

道中にあたる海上では北条時政らと合流し、阿波にたどり着きます。

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ここで頼朝を迎え、上総氏・千葉氏などに働きかけて再度平家打倒の兵を挙げるために動きました。

この頃、安房国の長狭常伴(ながさ つねとも)が頼朝を襲撃しようとしたのを、義澄は事前に察知して返り討ちにしたといわれています。

常伴は義朝の時代にも源氏に従わず、平家方を通していたことがありました。また、三浦氏とも因縁があったため、義澄は安房に来た時点で長狭氏の動きを警戒していたのかもしれません。

 


富士川の戦い

無事に兵が整い、石橋山の戦いの際は平家方だった武士たちも源氏方へ。

勢いを得た源頼朝は鎌倉入りを果たします。

同時期には、畠山重忠・河越重頼・江戸重長も頼朝についていますが、義澄や義盛ら三浦一族にとっては、父や祖父の仇。

頼朝も【衣笠城の戦い】のことは知っていたようで、三浦氏一門に対して

「平家を討つという大きな目的のため、遺恨を残してはならない」

と言い含めたようです。

当の義澄らも遺恨を持ち続けていなかったようで、頼朝の提案を素直に受け入れ、席次等でも問題はなかったとか。

重忠にとって三浦義明は母方の祖父ですし、あの時点では平家への義理立てがあったという事情を汲んだのでしょう。

こういったときの身の振り方などから、義澄の冷静さが伝わってきます。

10月の【富士川の戦い】にも、義澄はもちろん参加。

このとき平家方の伊東祐親(すけちか)が捕らえられるのですが、義澄の妻が祐親の娘、つまり舅であり、その預かりを申し出ます。

また、このころ北条政子が懐妊したという知らせも届きました。

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慶事に際して敵を助命するというのはよくある話なので、義澄も舅・祐親の助命を願い出ました。

頼朝も依存はなかったらしいのですが、祐親は自害を選んだといわれています(頼朝がやむなく処刑したという説もあります)。

これにはちょっとした事情があります。

かつて祐親の娘・八重姫が頼朝といい仲になり、子供(祐親にとっては孫)も生まれていました。

しかし祐親は平家に憚ってその子を殺してしまった。そのため頼朝の子供に免じて……という点に耐えられなかったのだろうというわけです。

また、このときは祐親の次男・伊東祐清(すけきよ)も捕らえられていました。

祐清は頼朝の乳母・比企尼の娘を妻としており、かつて娘とこっそり通じていた頼朝に対して祐親が激怒して討とうとした際、頼朝を逃したことがあります。

頼朝はその恩を忘れておらず、

「あのとき与えられなかった恩賞を今授けたい」

と言いました。

しかし祐清は、

「父が捕らえられたというのに、どうしてその子が恩賞をいただけるでしょうか」

と断り、あくまで平家方を通したといいます。親子揃って非常に義理堅い人物だったのでしょうね。

三浦義澄/wikipediaより引用

 

三浦介(みうらのすけ)

富士川の後、頼朝は西上しようとします。

そこで三浦義澄は千葉常胤上総広常らとともに以下のように献言します。

「常陸の佐竹氏がいまだ平家方であり、兵力も多数揃っています。他にも動向の読めない家がいくつかありますので、どうにかしておかないと背後が危険です」

頼朝はこの意見を容れて、ひとまず関東の地固めを優先することにします。

同じ頃、源義経が頼朝の下を訪れ、いわゆる「黄瀬川の対面」を果たしていますが、これに関する義澄の反応は記録されていません。

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富士川からの帰途、頼朝は初めての論功行賞を行いました。

義澄もこのとき賞されたうちの一人で、所領を安堵されると共に新しい領地をもらい、さらに”三浦介(みうらのすけ)”という呼称を許されました。

もともと義澄の父である義明が「三浦大介(おおすけ)」と自称していたことによるものと思われます。

”大介”は国司が署名する際に用いることがあった自称のひとつなのですが、それを頼朝が公認することによって、三浦一帯を安堵する意味を強めたのでしょうか。

また、このとき長尾定景という平家方の武士を三浦氏で預かることになっています。

彼はこれ以降は三浦氏の郎党となり、およそ30年後に実朝暗殺事件が起きた後、下手人である公暁を討ち取りました。

11月には他の御家人たちとともに、義澄も佐竹氏攻略に参加しています。

正面から戦っては損害が大きいということで、縁者にあたる上総広常が騙し討ちや離間をしかけるなど、頭脳戦の面も強い合戦。

そのためか、同合戦における義澄の功績はあまり語られていません。

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