三浦義明

三浦義明(右)と三浦義澄(絵・勝川春亭)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の三浦義明は89歳で孫の重忠に攻められ討死~鎌倉殿の13人

三浦義明(よしあき)という平安末期の武士をご存知でしょうか?

以前なら、即座に「誰それ」と言われたかもしれませんが、今はもう違うかもしれません。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でインパクトのある死が伝えられたのです。

佐藤B作さんが演じた三浦義澄の父であり、義澄や義村を逃がすため、城を枕に討ち死にしたのでした。

それが治承4年(1180年)8月27日のことで、事件のポイントは大きく二つ。

一つは平氏という血筋だということ。

もう一つは平氏でありながら源氏と深い関わりを持っていたことです。

本稿で三浦義明の生涯と共に確認してまいりましょう。

 


平氏の血筋ながら頼朝をバックアップ

もともと平氏とは、主に皇族が臣下に下った際に「平」の姓を名乗った人たちの末裔のことです。

そのため一人の皇族の子孫ではなく、桓武平氏や仁明平氏などさまざまな系統があります。

以下に主要なところがまとまっていますので、ご興味のある方はどうぞ。

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平氏のことをザックリ申し上げますと、まず歴史上の主要な出来事に名前が出てくるのはほんの一握り。

平清盛が生まれた伊勢平氏と、板東平氏と呼ばれ関東に拠点を置いた系統です。

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板東平氏からはさらにいくつか別の名字を名乗る人々が独立して家を立てており、義明の三浦氏もその一つだったのです。

現在の神奈川県三浦半島に拠点を置いたので、地名をそのまま名乗ったと思われます。

源氏との関わりについては、何となく予測のつく方も多いかもしれません。

三浦氏は上記の通り元々は清盛一派の平家サイドでしたが、義明の娘が源頼朝のトーチャン・源義朝の側室として嫁いでおり、義朝が京を追われて関東に来たときには地盤作りに協力していました。

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ざっくばらんに言うと「遠くの親戚より近くの他人」ってことですかね。

困ってたのは義明じゃなくて源義朝ですけど。

この縁があって、義朝が不幸な最期を迎え、さらにその子・頼朝が同じく関東に流されてしばらく後に平氏打倒のため兵を挙げると、義明は「直接血は繋がってないけど、あいつは孫も同然だから手伝ってやろう」と頼朝に味方したのです。

 


大雨で合流できずに

しかし、いざ蜂起した三浦軍は、行軍の途中で大雨に見舞われ、なかなか頼朝と合流できませんでした。

ドラマでも川の濁流に行く手を阻まれ、三浦義澄(佐藤B作さん)と三浦義村(山本耕史さん)が困惑していましたね。

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そこで三浦軍の元に「頼朝が石橋山で敗退した」という知らせが届きます。

実は、安房(現・千葉県南部)へ逃げていたのですが、当時の連絡手段は手紙等の物理的手段しかないわけですから、このときの義明らに詳細は把握できません。

その状況で最も賢明なのは、ひとまず居城・衣笠城(現・神奈川県横須賀市)に帰ることでした。

帰り着いた義明は急いで篭城の支度を整え、戦闘に備えます。

そこへやってきたのが、義明の孫にあたる武将・畠山重忠(しげただ)でした。

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彼らの関係がとにかく複雑過ぎまして。

大河『鎌倉殿の13人』だけでは細かすぎて描かれていなかったように思えましたので、あらためて見ておきましょう。

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