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永享の乱で関東に火種を大量投下! そして鎌倉公方・足利持氏は切腹へ

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キレた持氏、子供並みに反抗期

将軍になると思っていたのに、直前で落選。

そこで黙っていられないのが身内争いの絶えない源氏のサガなんでしょうか。

足利持氏はこの後、徹底的に子供じみた行動をすることになります。

義教の将軍就任祝いを送らないばかりか、「永享」への改元に応じず「正長」を使い続けたり、本来は将軍が決める鎌倉五山(特に権威がある鎌倉の五つの禅寺)の住職を勝手に決めてしまったり。

目に見えて「義教が将軍だなんて認めません! 俺が本当の将軍です!」という態度を取り始めたのです。子供かっ。

当然、鎌倉府でも「マズイですって……」と考え、持氏を諌める人はいました。

その代表格がときの関東管領・上杉憲実(のりざね)です。

が、持氏は憲実の忠告に耳を傾けません。

歳が一回りも下だったこと。

関東管領が将軍から直接任命される(実際は上杉氏の世襲を将軍が認定するような感じだった)こと。

そうした状況からナメていたんだと思います。

 

上杉禅秀の乱の当事者が後見だった

もしかしたら持氏は、憲実の先々代の関東管領・上杉禅秀(氏憲)に幼少から後見されていたので、

「上杉氏は家臣のくせに俺の頭を押さえつけるいけ好かない家」

という印象が強かったのかもしれません。

氏憲も氏憲で、関東の有力武士を結集し、鎌倉府を半ば以上乗っ取ろうとして幕府方の武士に討伐されているので、どっちもどっちなんですけどね。

ちなみにコチラの戦いは【上杉禅秀の乱】と呼ばれています。

この辺、名字が同じなのでややこしいのですが、禅秀は上杉氏のうち「犬懸家」という系統で、憲実は本家にあたる「山内家」の人です。

枝分かれしたのがだいぶ前のことなので、この時点では「同じ名字の遠い親戚」くらいの感覚でしょうか。

余談ながら、上杉氏は足利尊氏の母方の実家、かつ高師直の妻の実家でもあります。

高師直
高師直は室町幕府設立の立役者なれど……最期は無残な殺され方だった?

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だからこそ、室町幕府から名門として扱われたんですね。

もっと血筋を遡ると藤原北家(藤原冬嗣六男・良門/道長よりずっと前の時代の人)に行き着きます。

いわゆる「いい家」はだいたい、どこかしらで皇室か藤原氏に行き着きますね。もちろん例外もありますが。

 

息子に八幡太郎を名乗らせようと画策

閑話休題。

そんなわけで足利持氏は、幕府や上杉氏に対してどんどん反発心を強めていきます。しかも間違った方向で。

上杉禅秀の乱の後始末として、塩谷教綱に命じ、幕府方の宇都宮持綱(塩谷教綱の親戚)を殺してしまうのです。

禅秀を始末したというのは、幕府と幕府方の武士に感謝してしかるべきなんですけども

「ほっといてくれても俺が自分でなんとかできたのに! 余計なことして恩着せやがって!」

とでも思ったのでしょうか。

そもそも、鎌倉府は幕府の代わりに東日本を統治すべき場所です。

幕府との対立は本末転倒。上杉憲実はそこを含めて持氏へ諫言を繰り返しました。

足利公方邸 旧蹟/photo by Urashimataro wikipediaより引用

持氏も、小さなことでは諫言を受け入れたこともありましたが、それ以上に持氏はマズイ言動を繰り返していきます。

例えば、持氏の嫡子・賢王丸の元服の際、「足利義久」という名をつけました。

キラキラネームでもなし、一見問題ないように見えますが、これが問題オオアリです。

鎌倉公方は将軍家の親戚なので「男子の元服にあたっては将軍から偏を受ける」という慣習がありました。

この場合は将軍の名前が「義教」なので、「教」の字をもらって「教◯」あたりを名乗るのが順当なところです。

また、「義」の字は足利本家の通字でもありました。

この時点までの鎌倉公方では、「義」の字をつけていた人はおらず、「氏」が通字扱いになっています。

さらに、義久の通称として源氏のご先祖様である源義家を示す「八幡太郎」の名までつけようとしたのです。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

自分の息子に「義」の字をつけたということは、「ウチは将軍家と同格だし、何かあったらウチの息子が次の将軍になるから!」と言っているも同然。

回りくどくてめんどくさい話ですが、中世までのゴタゴタってこういう細かいところから

不仲

小競り合い

全面対決

というパターンが多いんですよね……。

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