新田義興

新田義興/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

義貞の次男・新田義興が矢口の渡しで謀殺~新田家嫡流の血が終わる

延文三年=正平十三年(1358年)10月23日は、江戸高良(えどたかよし)が落雷に遭った日です。

高良は江戸時代ではなく室町時代の武士です。

それが雷に遭った――と言えば「運の悪い人の話?」と思われるかもしれませんが、それまでの経緯を見ると「バチが当たっても仕方ないかも……」と思われるかもしれません。

さっそく順を追って振り返ってみましょう。

 


観応の擾乱で足利家が同士討ちをしている間に……

「延文」と「正平」という元号だったこの年の日本は、南北朝真っ只中の時代でした。

と言っても楠木正成や新田義貞など、南朝の英雄たちは既に死亡。

後世から見た場合の主要人物たちは舞台を立ち去っており、その子供たちによる争いが依然として続いていました。

その中にいたのが新田義興(よしおき)。

義貞の次男です。

義興は父が亡くなった後、越後に潜伏して機をうかがっていたとされています。

そして【観応の擾乱(足利家の壮大な兄弟喧嘩)】が始まると、親族や奥州の武士と呼応して兵を起こし、鎌倉を奪おうとしたころ失敗。

足利尊氏の反撃に遭い、話(物理)は尊氏の死後までもつれこみます。

そして延文三年=正平十三年(1358年)、義興らは再び鎌倉を奪うために挙兵しました。

※以下は足利尊氏の生涯まとめ記事となります

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ハニートラップにも引っかからず

これに対し、尊氏の息子で鎌倉公方を務めていた足利基氏らは、部下に義興軍の迎撃を命じます。

冒頭に登場した江戸高良は、その部下の一人だったのです。

足利基氏
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戦でなかなか勝てないので、別の人が義興に美人局(つつもたせ・いわゆるハニートラップ)を仕掛けてみたりしたのですが、これもうまくいかず、結果、高良にも話が回ってきたと言います。

高良は一計を案じ、義興一行の十数名を武蔵国・多摩川にあった「矢口の渡し」というところで罠にかけて殺害しました。

『神霊矢口之渡』 /Wikipediaより引用

渡し船に乗っているところで、(船を漕ぐアレ)を落としたと見せかけ、「探しに行く」と偽って船底の栓を抜いたのです。

さらに矢を射かけ、義興は「もはやこれまで」と観念して腹を切った……といわれています。

 


高良への落雷は義興謀殺からわずか13日後

そろそろ話の流れが読めてきた方もおられるでしょうか。

そう、665年前の10月23日(ただし旧暦)、高良が落雷に遭ったのは、義興の祟りだといわれているのです。

なんせ義興が謀殺されてからたった13日しか経っていません。当時の人からすれば、恨みの強さが現れている……とみてもおかしくない話です。

義興は、義貞側室の子であり、父からはあまり好かれていませんでした。

しかし後醍醐天皇に認められてやる気を出し、一族再興のため、父の無念を晴らすために挙兵したあたりが、健気でもあり純朴でもあり。

それが戦で負けて死ぬのならともかく、謀略で殺されてしまったのですから、恨み骨髄に徹するというものでしょう。

まぁ、計略も戦のうちですけれども、義興には卑怯としか思えなかったのでしょうね。

現在この付近(東京都大田区矢口)にある新田神社は、義興の霊を慰めるために建てられたものです。

神社で祀られるようになってからは、義興の霊も鎮まったようで、地元の人や旅人の守り神になりました。

幽霊や祟りや神様が実在するかどうか――それはまた別の話ですが、恨みを晴らした後にサッと大人しくなるあたりに、何となく人間だった頃の性格がうかがわえる気がしますね。

祟り神を祀る神社は多々ありますけれども、この21世紀になってもバリバリ怨霊な感じの神様もいらっしゃいますし……くわばらくわばら。

さて、上記の通り義興は次男なわけですが、長男や他の兄弟はどうしていたのでしょうか。

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