三浦義村

源平・鎌倉・室町

殺伐とした鎌倉を生き延びた三浦義村の“冷徹” 鎌倉殿の13人山本耕史

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源実朝暗殺事件

建保六年(1218年)7月に北条泰時が侍所別当になった際、義村は二階堂行村・伊賀光宗らとともに侍所所司に任じられています。

行村と光宗は、いずれも京都の公家出身。

つまりは文官肌の人間であり、武士ではありません。

義時としては、文官タイプの二人と、武士としては冷静なタイプの義村を組ませることによって、他の武士をうまく統率していこうという腹積もりだったのかもしれませんね。

この時代の武士は、現代人には想像がつかないほど些細な理由で武器を持ち出してくることが珍しくありませんので。

義村の冷静さは、翌承久元年(1219年)1月に起きた実朝暗殺事件でも光ります。

このとき、実は暗殺の実行犯である公暁が義村を味方につけようとしていました。

なぜなら義村の妻が公暁の乳母を務めていたからです。

当時の乳母は乳を与えるだけでなく、教育係や後見役という面もありました。そのため夫と二人で役目を果たすことも多く、その場合は夫のほうを「乳母父」と呼びます。

さらに、義村の息子が公暁の弟子になっており、二重の縁と言っても過言でありません。

義村と公暁は義理の親子と師弟を足して割ったような、近い関係にあったのです。

事件の後、公暁は実朝の首を持って現場から逃走し、一旦身を潜めてから義村へ同心するよう求める使者を出しました。

義村はこれに対し、

「後ほど迎えを寄越すので、しばらくそこでお待ち下さい」

と返事を出しました。

しかし義村が用意したのは、違う意味での”迎え”でした。

彼はまず、公暁へ返事の使者を出すことによって時間を稼ぎ、その間に義時へ公暁の居場所を知らせます。

義時は即座に公暁討伐を決め、義村は自分の老臣である長尾定景を討手に命じました。

定景は年齢を理由に断ろうとしたものの、義村がゴリ押して引き受けざるを得なかった……とされています。老人を向かわせることによって、公暁の油断させようとしたのかもしれません。

一方その頃、なかなか迎えが来ないことにしびれを切らした公暁は、三浦邸へ向かっていました。

定景らは迎えを装い、たまたま行き合わせたということにして公暁を油断させ、鶴岡八幡宮の裏で公暁を組み討ちしています。

ちなみに、名字からもわかる通り、長尾定景は戦国大名・上杉氏の家臣となった長尾氏の先祖にあたる人物です。

定景の生年は例によって不明ですが、治承四年(1180年)【石橋山の戦い】では平家方で参戦していますので、その頃には既に成人してそこそこの年数が経っていたでしょう。

その上で承久元年(1219年)に老人という自覚があったとなると、1150年~1160年代前半くらいの生まれでしょうか。

 

承久の乱

閑話休題。

実朝暗殺事件については謎が多く、古くから黒幕の存在が疑われてきました。

その中には「義村が実朝暗殺に一枚噛んでおり、最後の最後で公暁を裏切って証拠隠滅した」という説もあるほどです。

しかし、義村が実朝を始末したとしても、将軍の座に取って代われる立ち位置か?というと、そういうわけでもありません。

実朝の母であり、”尼将軍”とまで呼ばれた北条政子も存命でしたので、少なくとも義村が公暁と組んだだけでは、クーデターを成功させられた可能性はかなり低かったでしょう。

義村が義時と組んで陰謀を巡らせていた場合は、その限りではありませんが……。

これは私見ですが、義時の性格からすると、排除すると決めたら「甥も姉もまとめて始末しにかかるのではないか」という気もします。

義村のこの冷静さは、ごく身近な近親者に対しても発揮されました。

これまた鎌倉時代の大事件、承久三年(1221年)5月に起きた【承久の乱】。

このとき、義村の弟・三浦胤義は後鳥羽上皇方につきました。そして義村のところにも同心してほしいという使者が来たのですが、彼は使者を追い返します。

さらに、あらぬ噂が流れる前に、胤義からの書状を持って義時のもとへ出向き、

「私は上皇方につくつもりはありません。幕府に尽くす所存です」

と告げたのだそうです。

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もしも、こんなときモタモタしていたら、

義村の屋敷にどこかからの使者が来た

それから義村が幕府に対して動きを見せない

密かに反逆する準備を整えているのでは?

やられる前にやってしまえ!!

なんて流れになりかねません。

これまでいくつもの家がそういった手で滅ぼされてきたのを見てきた義村が、すぐに腰を上げたのは正解でした。

義村はその後、上洛する幕府軍に加わり、手柄を上げています。

ちなみに上皇方だった胤義は敗走した後、東寺で籠城戦に持ち込みましたが、あえなく自刃しました。

 

伊賀氏の変

三浦義村の冷静さは幕府内部でも非常に高く評価されていたのでしょう。

元仁元年(1224年)6月には、クーデターの片棒をかつぎかけています。

このころ義時が急死し、その後家である伊賀氏が

「一条実雅を将軍に立て、北条政村を執権に」

と陰謀を巡らせていました。

北条政村は義時の四男で、泰時とは異母兄弟にあたります。

また義村は、政村が元服する際に烏帽子親を務めていました。烏帽子親は武家の男子が元服する際、烏帽子をかぶせ、後見役となる人です。

つまり、またしても義村は義理の親子に近い立場のところから、謀反の誘いを受けてしまったことになります。

どのような立場の人からも信頼され、実力を持っていることが裏目に出たような形ですね。

このときは一瞬協力しかけましたが、北条政子が直々に説得しに来たため考えを改め、幕府方に転じたとされています。

伊賀氏の変自体が政子による陰謀という説もありますが……その真偽については、ここでは触れないことにしましょう。

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評定衆に選ばれ政治の中枢に

義村は、義時の後を継いで執権の座についた泰時にも信任されました。

前述の通り義理の父でもありますしね。

嘉禄元年(1225年)夏に大江広元と北条政子が相次いで死去した後、泰時は合議制を行うために”評定衆”という政治機関を設けました。

義村はその一人として選ばれ、亡くなるまでの14年にわたって政治の中枢にあったのです。

大きなところでは【御成敗式目】の制定にも携わりました。

以降、三浦氏は幕府の重鎮として確固たる地位を築き、さらなる飛躍を……と思いきや、やはりそうはいかないのがこの時代。

宝治元年(1247年)の宝治合戦で滅亡させられてしまうのです。

さすがにここまで来ますと『鎌倉殿の13人』の次世代の話。

また別の機会に触れてみたいと思います。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
ほか

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