北条義時

源平・鎌倉・室町

北条義時 史実の人物像は真っ黒!大河『鎌倉殿の13人』主人公の生涯

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侍所の別当で地位盤石

和田義盛の乱こと【和田合戦】に勝利したことで、義盛が務めていた侍所別当の地位も、義時のものになりました。

その体制は盤石。

政治と警察の両方が義時の手中に収まったのです。おそらくや現代でも、この二つを押さえればなんでもできるでしょう。というか武士ですから軍事力も合わせて三つの権力ですね。

義時は官位もガンガン上がり、最終的には父・時政が受けていた【従五位下・遠江守】を超え、【従四位下・右京権大夫兼陸奥守】にまでなりました。

それまで御家人で一番官位が高かったのは【大江広元の正五位】。

もはや武士も朝廷も、誰も義時を止められなくなってしまったのです。

モヤッとする「位階と官位」の仕組み 正一位とか従四位ってどんな意味?

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ドコを切り取っても真っ黒な義時。

その最たる一件が、建保七年(1219年)の年明けに起こります。

源実朝の暗殺事件です。

詳しくは実朝の記事で述ますので、ここでは簡単に触れますね。

前年の末、実朝は右大臣に任官され、1月27日に鶴岡八幡宮を拝賀(神仏にお礼を述べること)しました。

雪が二尺(約60cm)も降り積もるような、厳寒の中だったといいます。

拝賀を終えて実朝が退出しようとしたそのとき、階段横の大銀杏から

「親の仇を討つ!!」

と叫びながら、何者かが実朝に切りかかりました。

亡き頼家の子・公暁、実朝にとっての甥です。

このとき、本当は義時が源実朝の御剣奉持(太刀を持つ)の役をするはずでしたが、急病によって源仲章にその役を譲り、自邸へ。

おかげで難を逃れたですが、あまりにもタイミング良すぎて怪しいにも程があるというか。

義時と役目を交代した仲章は実朝同様に斬られていて、これで何も関係してなかったとしたら、そっちのほうがスゴイ話ですよね。

 

将軍の座を狙う源氏一族

ともかく、実朝の死によって源氏の直系が絶えてしまい、血筋の近い人々が、将軍の座を狙って策動し始めました。

源氏の一族・阿野時元
頼家の遺子・禅暁

などです。

時元は、源頼朝の異母弟である阿野全成の四男です。

頼家や実朝のイトコですから、当然将軍になることは不可能ではありません。

しかし、その血筋の近さを義時が見逃すはずもありません。

京都で出家していた禅暁は、実朝暗殺の実行犯である公暁と兄弟だったことから関与を疑われ、誅殺されてしまいました。

義時としては皇族を将軍に迎えたかったようですが、朝廷に断られ、九条家から藤原頼経(当時1歳)を摂家将軍として迎えることになります。

頼経は頼朝の異母妹の血を引いているので、一応正当性もありました。

表向きとしては「源氏の血を引く高貴な方をお迎えした」ということにすればいいわけですしね。ゲスい。

しかし、幕府と朝廷の関係は悪化してしまいます。

もしかすると、この時点で朝廷としては

「頼朝の直系が絶えたんじゃ、幕府が存続する意味もない。北条氏は何かと増長してるし、もう潰してもよくない?」

みたいな考えがあったのかもしれません。

義時もその空気を察したのか。伊賀光季を京都守護として派遣し、治安維持と朝廷の監視をさせています。

その後、さらなる念押しとして、大江親広も上洛させていました。

 

承久の乱

一方、後鳥羽上皇のもとでは倒幕計画が着々と進められます。

義時に対して調伏(敵を倒すために神仏に祈祷すること)までしていたそうですから、本気っぷりがうかがえるというものです。

現代人から見ると意味がないようにも見えますが、当時は神仏や祈祷の力が信じられていましたから、このときも鬼気迫る勢いで調伏が行われたことでしょう。

そしてついに、京都近隣の武士や僧兵を召集&蜂起して、光季を討ちます。

同時に【北条義時追討の宣旨】を発して、討幕の軍を起こしました。

承久の乱】の始まりです。

相手が官軍――という事態は武士たちの動揺を引き起こし、義時も、御家人たちの動向を心配していたようです。

が、ここで北条政子が土俵際のすさまじい粘りを見せます。

「アナタたち、頼朝公の恩義はどうなりました! 忘れたとは言わせませんよ!」

政子の逸話として、現代でも非常に有名な大演説ですね。

もっともこれは『吾妻鏡』の話であって、政子が本当に啖呵を切ったかどうかはわかりません。しかし、彼女が強い意志を見せることによって、御家人たちが腹を決めた……という大まかな流れは事実でしょう。

かくして、三浦義村以下、有力御家人のほとんどが幕府への忠誠を誓い、幕府側は一致団結して反撃態勢を整えることができました。

また、このときの大義名分として

「院(後鳥羽上皇)ではなく、そのお側に救う悪臣どもを討つのだ」

としていたようです。

時代が前後しますが、関ヶ原の戦いが「豊臣vs徳川の戦い」ではなく、石田三成徳川家康がお互いに「秀頼様のためにならないアイツを討つ」という大義名分を掲げていたことと似ていますね。

あくまで、悪いのはトップではなくて君側の奸というわけです。

承久の乱の際、義時からは嫡子・北条泰時と次男・北条朝時、ならびに弟の時房が派遣されました。

歴史物語『増鏡』では、泰時が「もしも、院ご自身が兵を率いて来られたら、どうするべきでしょうか」と尋ね、義時はこう答えたと伝えます。

「それを問うとは賢い子よ。もちろん、御輿に弓を引くことがあってはならない。

万が一そのようなことになったら、大人しく兜を脱ぎ、弓の弦を切って、ひとえに頭を下げ、沙汰を乞うべきだ。

だが院のご出馬がなく、兵を差し向けられているだけの間は、たとえ千の味方が一人になろうとも戦い続けよ」

※意訳です

増鏡は南北朝時代の公家によって書かれたものとされていますので、少々信憑性には欠けますが、さすがの義時も天皇や上皇を討ち果たせとは命じていなかったでしょう。

そもそも幕府や征夷大将軍の存在は、天皇が認めたからこそ成り立ちます。

となれば執権である義時の立場も似たようなもの。自分で自分の権力の根源を否定するなど、賢愚以前の問題になってしまいますね。

総計十九万※にもなる幕府軍は、三手に分かれて西へ向かい、快進撃を続けます。

※史料による誇張であり、推測で幕府1~2万に対し、朝廷は1700騎程と目される

そして一ヶ月半ほどで京都を制圧するという完勝を収めました。

あまりにもあっさり勝ててしまったためか。

このときの幕府軍の将兵はかなりの狼藉を働いてしまったようで『承久記』にこう記されています。

「反動の兵たちが、京都のありとあらゆるところから乱入してきた。京の人々は三公から雲客・遊女以下に至るまで、声を立て泣き叫びたち迷った」

保元の乱や平家の都落ちのときでさえ、これほどの混乱ではなかっただろう」

「院の命で立ち向かった者、ただ見物に出てきた者を問わず、坂東の兵に追い詰められていく様は、鷹の前の小鳥のようだった。射殺し、斬り殺し、首を取る者幾千、坂東の兵の中で、首を取らない者はいなかった」

京都にいた人々にとって、幕府軍がいかに恐ろしく思えたかが伝わる、生々しい文章ですよね。

いずれにせよ、承久の乱で幕府は完全勝利。

義時が最高権力者となり、朝廷よりも優位であることが確定しました。

その流れに乗って義時は、皇室・公家の監視を務める【六波羅探題】を設置します。

朝廷からすれば、首輪をつけられたようなものです。

その代わり……というのも微妙ですが、承久の乱での処罰は、あまり厳しくしていませんでした。

首謀者とみなされた後鳥羽上皇や順徳上皇、そしてその近臣たち数名と、御家人のうち上皇サイドについた者だけです(近臣たちは鎌倉への護送途中で誅殺され、寛大ともいい切れませんが)。

後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に流罪となりました。

さすがの義時も、この両名の処刑はできなかったようです。

一方で、乱に直接関与していなかった土御門上皇(後鳥羽上皇の長男で、順徳上皇の兄)には、かなり気を使った節があります。

なぜかというと、土御門上皇は

「父も弟も流されていくというのに、私だけ京でのうのうと暮らせるものか」

といって、自ら流罪を申し出たからです。

幕府方でもあまりの律儀さに困りながら、古来より都との往来があった土佐に土御門上皇を流します。

しかし、元々罪がないことなどから、後にもっと都に近い阿波へ移し、新たに上皇のための御殿を建てるなど、優遇していたようです。

 

乱から3年後に急死

承久の乱が終わった後――。

義時は新たに任じた地頭たちを通じて、全国における幕府の支配をより強固なものにしようとしていました。

上皇方だった公家や武士の領地を没収し、御家人達に与えていったため、主に関東以外の土地が対象です。

しかし、ここで新たな問題が発生します。

人間、突然エラくなれば増長するもので、新たに地頭となった武士たちが、幕府の権力を傘に着て、地元民とトラブルを起こすようになっていくのです。

当然その訴えは幕府に届くわけで、義時らもその応対でてんやわんやした時期があったことでしょう。

そこで幕府は、承久の乱の翌年(貞応元年=1222年)に地頭の職務や近隣との付き合い方を条文としてまとめ、これを厳守するよう命じました。

年貢や税に関する取り決めを次々と出し、なんとか訴訟を減らしていきます。

義時自身は、承久の乱の3年後に急死しました。享年62。

表向きは脚気衝心(脚気の進行による心不全)とされていますし、亡くなるその日に出家していたようなので、前々から徴候があったのでしょう。

一方、京都では「後妻の伊賀の方に毒殺された」という噂が立ったとか。また、近習に刺されたという説もあったようです。

まあ、これだけいろいろやっていれば、どんな死因であってもおかしくはないというか、畳の上で死ねるほうが珍しいというか……。

これだけ真っ黒い人が独裁状態を布いていると、次代にさぞ累が及びそうですが、意外にもそうはなりませんでした。

気になる方は、義時の息子・北条泰時の記事を併せてご覧ください(以下の関連記事内にあります)。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田 元久『北条義時 (人物叢書)』(→amazon
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon

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