足利基氏

足利基氏/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

9歳で初代鎌倉公方となった足利基氏(尊氏の四男)その不審な最期とは

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
足利基氏
をクリックお願いします。

 

可哀想な宇都宮さん 約束を反故にされ職を奪われるも

この間、基氏も成長して新田義興(義貞の息子)を討っておりました。

ゆえに兄・義詮に対する発言権も強めていたことでしょう。

新田義興
義貞の次男・新田義興が矢口の渡しで謀殺され 新田家嫡流の血が終わる

続きを見る

基氏は憲顕を呼び戻しただけでなく、更に越後守護の職も与えます。

と、これが問題となりました。かつて尊氏が宇都宮氏綱という人に与えたものだったからです。

氏綱は観応の擾乱で武功を挙げてこの職をもらっていたので、ぽっと出(に思える)義顕にかっさらわれては、当然腹が立つわけです。

基氏も当時は待ってましたとばかりに宇都宮征伐に動きます。

しかし、氏綱が降伏を選んだため、さほど長引かずに戦いは終了。って、何だか氏綱がかわいそうですよね……。

そして義詮も基氏もトーチャンの意向を無視しすぎでは?(´・ω・`)

足利義詮
室町幕府の2代将軍・足利義詮は地味だけど意外に有能?生涯38年まとめ

続きを見る

ともあれ、こうして鎌倉府は基氏と憲顕によって地固めができました。

ここで基氏は、別の方向で鎌倉を豊かにしようと思い立ちます。

尊氏が大変世話になっていた僧侶・夢窓疎石の弟子である義堂周信を招き、禅や文学を奨励したのです。

周信は基氏の息子・氏満の教育係も務めているので、公私共に信頼関係があったものと思われます。

基氏は和歌と笙(しょう・雅楽などで使われる日本古来の楽器)を嗜み、美食を愛する人物だったそうなので、普段は付き合いやすかったのでしょう。

周信自身が「私と基氏とは君臣を超えた付き合いをしてきた」と日記に書いているくらいですから。

 

室町vs鎌倉の対立を深め、戦国時代の遠因となり……

しかし、基氏は正平二十二年=貞治六年(1367年)4月に突然亡くなってしまいました。

死因は麻疹だといわれていますが、この時期の鎌倉府に同じ死因の人がいなさそうなので、アヤシイものです。

麻疹は伝染病ですから、基氏だけがピンポイントで亡くなるというのは、どうにも……。

麻疹の歴史
麻疹をナメたらほんとにヤバい 幕末の江戸では最大40万人が苦しんだ

続きを見る

ちなみに義詮も同じ年の12月に亡くなっています。怪しすぎ。

ついでにいうと、義詮の息子である三代将軍・足利義満と、氏満のあたりから

【幕府vs鎌倉府の対立】

が始まり、関東における戦国時代の遠因ともなりました。

足利義満
室町三代将軍にして日本国王の称号を持つ足利義満 51年の生涯まとめ

続きを見る

観応の擾乱といい、「室町幕府って最初から最後まで内紛だったんかい」とツッコミたくなってしまいますね。

それでいて、基氏の子孫はちゃっかり明治時代まで存続している系統もあったりするのですが。したたかというかなんというか……。

足利家の面々を理解するには、源氏や徳川家の人々よりもさらに深い研究が必要になりそうです。だから大河にもなりづらいのかもしれません。

みんなが読んでる関連記事

足利尊氏
足利尊氏は情緒不安定なカリスマ将軍~生誕から室町幕府までの生涯とは

続きを見る

足利直義
尊氏vs直義 史上最大の兄弟ゲンカ「観応の擾乱」の結末は毒殺か

続きを見る

高師直
高師直は室町幕府設立の立役者なれど 最期は無残な殺され方だった?

続きを見る

新田義興
義貞の次男・新田義興が矢口の渡しで謀殺され 新田家嫡流の血が終わる

続きを見る

足利義詮
室町幕府の2代将軍・足利義詮は地味だけど意外に有能?生涯38年まとめ

続きを見る

足利義満
室町三代将軍にして日本国王の称号を持つ足利義満 51年の生涯まとめ

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
足利基氏/Wikipedia

TOPページへ

 



-源平・鎌倉・室町
-