八重と義時が結ばれるのは史実的にアリ?

和田合戦の北条泰時(歌川国芳作)/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

八重と義時の結婚は史実的にアリだった?泰時の母は誰?鎌倉殿の13人

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は言うまでもなく北条義時が主役です。

そして最初の妻となったのが、血縁的には叔母にあたる八重でしたが、この時代の歴史ファンには、ちょっとした疑問でもありました。

八重と義時がくっつくのは史実的にアリなの?

事は、そう単純ではありません。

史実の北条義時には、正室の比奈(姫の前)がいます。

比企一族の娘であり、劇中では堀田真由さんが熱演されていました。

そこで同時に浮上してくるのがこの問題。

北条義時の嫡男・北条泰時の母は誰なのか?

北条泰時とは執権北条家の御曹司であり、【御成敗式目】を制定した文武両道の逸材ですが、実は、史実においてその母は不明なのです。

ドラマでは「金剛」という利発な少年であり、八重が母という設定でした。

これはなにも脚本家・三谷氏による大胆な描き方という話でもなく、研究者の中にも「八重の可能性がないわけじゃない」とする方もいます。

八重と義時の関係。

そして泰時の母は誰なのか問題。

二つのテーマを考察してみたいと思います。

※以下は北条泰時の生涯まとめ記事となります

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「泰時の母は阿波局」説は怪しい

北条義時の息子であり、鎌倉幕府の第3代執権となる北条泰時。

この泰時が生まれた寿永2年(1183年)は【倶利伽羅峠の戦い】があった年であり、まさに源平合戦の真っ最中でした。

父の義時は二十歳を超えたばかりの青年であり、義兄の源頼朝や姉である北条政子らと奮闘を重ねていた頃です。

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義時は鎌倉に居を構え、そこで金剛という男児が生まれました。

平家は健在で坂東武者にとってはまだまだ忙しい時期であり、かつ義時の年齢や地位を考えても、側室に産ませたとは考えにくい。

生まれた月日まではハッキリしておらず、当時の泰時はそこまで重要な存在とみなされていなかったのでしょう。

では、泰時の母は誰なのか?

「阿波局」とする系図がありますが、阿波局は義時の妹、つまりは泰時の叔母にあたります。

『鎌倉殿の13人』では宮澤エマさんが演じ、実衣という名前がつけられていた女性ですね。

さすがに彼女が母であるとは考えにくく、どこかで誤認されたか、あるいは同名の別人がいたか?

考えられる一つの可能性は、

・阿波局が「育ての母」

ということでしょう。

泰時の生母が何らかの理由で彼を育てることができず、阿波局が我が子のように育てたとすれば、そうした誤認は考えられるかもしれません。

他の可能性としては、

・阿波局が複数いた

ということも有り得るかもしれません。

後白河法皇の寵姫である「丹後局」もそうですが、当時は似た名前の人物が多く、混同されることも少なくありません。

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中世史の研究者である坂井孝一氏は、こんな推論を展開しています。

・初代として、義時の妹(二代)ではない女性が北条周辺にいた

・初代死後に二代目がいた

かように様々な可能性が考えられますが、結局のところ、答えは誰にもわかりません。

ゆえにドラマでは自由に創作しても問題ない部分でした。

 

『草燃える』の泰時母は「茜」だった

北条泰時の母が大河に出るのは『鎌倉殿の13人』で二度目です。

一度目は昭和54年(1979年)に放送された『草燃える』で「茜」という女性でした。

演じたのは松坂慶子さん(→link)。

三谷幸喜さんは前作の「茜」像を上書きする気合で挑んでいるそうですが、では約40年前の「茜」は、どんな女性として描かれていたのか?

出自:大庭景親の娘で、平家の建礼門院徳子の女房

経歴:里帰りの際に義時と出会うが、父が斬首されたため心を閉ざす。頼朝の夜這いに遭い、父親が不明の子を妊娠。義時のもとを去る。義時が見ている中、壇ノ浦で死亡

その後:瓜二つ、同一キャストの白拍子が後鳥羽院の寵姫になる。義時はそんな彼女から目が離せない

昔の大河はかなり自由だった――そんな設定ですね。

同時に、このころヒロインに求められた属性や傾向も見えてきます。

・ロミオとジュリエット

源氏のロミオと平家のジュリエットといえる関係性であり、古典的だからこそ盛り上がりました。

もうひとつ特徴があります。

・性的同意の無視が許容される

義弟であり、信頼できる家臣の妻に夜這いをかける源頼朝とは、一体どういうことか。

今ならば考えられない発想でしょう。

『鎌倉殿の13人』では、確かに源頼朝も下劣な性的逸脱をしていましたが、こちらの場合は相手の同意は取っています。

そんな下劣な設定をしてまで、なぜ夜這いをさせたか?

・源氏断絶を避けるため?

泰時が頼朝の子であれば、源氏の血筋はそっと続いていたとも見なせます。

源氏将軍の断絶というショックを回避する効果はあったのかもしれません。

・「冷蔵庫の女」

「冷蔵庫の女」とは、アメコミ『グリーン・ランタン』において、主人公の恋人が殺されて冷蔵庫の中に入れられていたことが由来とされる概念です。

男の目につく形でヒロインが死ぬ事により、奮起させるという効果がある。

近年の大河ドラマですと、2014年『軍師官兵衛』が典型的です。

史実では官兵衛の妹が婚礼で殺されますが、作中では淡い初恋の相手がそうなっていました。

しかし、こうした展開は「なぜ男を奮起させるために女を殺さねばならないのか?」と現在では問題視されています。

表現は自由と言えど、社会の成熟に比例して劇中の展開もアップデートされるものです。

かように1979年に登場した「茜」は作品当時の女性感が反映されていて、『鎌倉殿の13人』における泰時の母も自らの意思を持って行動する、2022年の作品らしいヒロイン像となりました。

泰時は、義時が二十歳の時の子供です。

となると八重――新垣結衣さんが演じる彼女が母でおかしくありません。

では、史実の八重が、泰時の母である可能性はあるのか?

 

八重なんて嫌……だとすれば?

史実の八重が、泰時の母である可能性は?

『鎌倉殿の13人』の考証をとつめる坂井孝一氏の著作『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon)に、その答えのヒントが記されており、結論はこうです。

確たる証拠はないけれども、ありえないとも言い切れない――。

蓋然性の高い説であり、よろしければ書籍(→amazon)をご確認いただけたらと思います。

あとは、時代考証担当者が提示した説を脚本で取り上げるかどうかであり、実際、八重が妻となって金剛(北条泰時)を産みました。

それでも視聴者が八重の泰時母説に拒否感を抱くとすれば、それはなぜなのか。理由を考えてみました。

・八重と義時は、叔母と甥である

現代人からすれば近親であり、タブーであるという認識になります。

しかし当時はこの程度の血縁での結婚が当然であり、歴史的にはタブーとはなり得ません。

・八重には入水伝説がある

伊豆の国市には八重の悲恋伝説の史跡があります。

案内板に入水したと書かれているのに、そうではなくて生きていて誰かと再婚するなんて……そう思ってしまう気持ちも湧いてくるかもしれません。

ただし、八重が再婚する伝説も昔からあります。

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最終的に八重は川で命を落としてしまいますが、亡き息子・千鶴丸の影を追い……そんな非常に悲しい展開でした。

・再婚する八重は「貞女」とはいえない

入水伝説が根付いた心理としては、儒教由来の「貞女は二夫に見えず」という道徳観もあったのでしょう。

しかし八重の生きていた時代の坂東は、そうした規範が薄かったと考えた方が合理的です。

・あんなに頼朝への愛を見せておいて義時と結婚て???

思えば劇中の義時は、八重と頼朝のために苦労をしています。

デートのセッティングをして頼朝が来なかったため、八重から木の実をぶつけられました。

八重の義時への態度はわがままさも出ており、批判もされました。

そういうことを踏まえると、視聴者にはモヤモヤが生じるでしょう。

・アッサリ殺されてしまった前夫の江間次郎が気の毒で……

『鎌倉殿の13人』では八重の再婚説を採用し、家人であった江間次郎と再婚しました。

この次郎は妻への愛が一方通行であり、視聴者も彼に同情しています。

◆ガッキー・八重の夫が「可哀想すぎる」 大河「鎌倉殿の13人」妻に激怒→すすり泣きに同情の声(→link

こちらの記事にもありますように、彼の切ない表情を思い出すと、たしかにモヤモヤは募りますね。

・政子は許すのか?

北条政子の気の強さからすると、夫の元嫁である八重が弟の妻となり、自分たちの周囲をうろつくなんて嫌に決まっているでしょう。

しかし逆に考えることもできます。

我が意の通りに動く弟・義時であれば、八重をそこに引き留めておけると考えられる。

・諸々が生々しすぎる

ご近所同士でこんなギスギスした結婚するなんてどうなの?

根本的にそんな違和感も残ります。

「当時はそんなもんでしょ」と言われたって、現代人からすれば生々しすぎてゾッとするかもしれない。

再び坂井孝一氏の論拠に注目したいと思います。

北条義時は、江間の土地を治める「江間小四郎」と呼ばれていた。

江間領主の座に治まるとすれば、前任者である江間次郎は不在でなければならない。

次郎が討死したからこそ、その後に小四郎が治まることができた。

江間の土地には、次郎の妻・八重もついていた。

そういう論拠ですね。

坂井氏も確たる証拠はないとしていますが、ドラマの考証担当がこう示しているのであれば、脚本に取り入れることはできます。

ただし、前述の通り「生々しくなる問題」は解決できません。

現代人であれば困惑必至、「土地とセットの妻」という設定が受け入れられなければ、この説を切り捨てて見るしかなさそうです。

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