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【源義経】
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頼朝と対面した後、範頼と共に京都へ
さて、義経が歴史の表舞台に出てくるのは、それからしばらく経った治承四年(1180年)のことです。
頼朝が挙兵したことを聞き、実兄を助けて父の仇を討とうと意気込みました。
秀衡も賛成し、義経に自分の家臣である佐藤継信・忠信という兄弟と、その他に騎馬武者を数十騎つけてやっています。
これで義経が、頼朝や朝廷に認められれば、その後ろ盾として奥州藤原氏の勢力も強まる……という計算も当然あったでしょう。
頼朝との対面を果たした後、義経はもう一人の兄・源範頼と共に京都へ。
そこで戦功はあったものの、都で狼藉を働いてしまったイトコ・義仲を討ち、源範頼と【一ノ谷の戦い】に臨みます。
【鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし】と呼ばれる、急坂からの奇襲で平家軍を蹴散らし、一躍、英雄視されるようになりました。
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義仲がアレコレと無茶やった直後だったため、京都の人々にとっては、義経の活躍がより鮮明に映ったことでしょう。
一ノ谷の戦いの後、義経は頼朝から「治安回復のため、京都に留まるように」と命じられ、実際、その通りに働きました。
お陰で、後白河法皇や公家たちの信頼を得ています。
しかし、その信頼が仇にもなるから歴史とは残酷なものです。
後白河法皇に政治利用されてしまい……
後白河法皇から利用価値を認められてしまった義経は、政争の道具にされてしまいます。
「コイツをうまく使って、頼朝が政治力をつけないようにしよう」ってなワケでして。
その象徴となる出来事が、義経の検非違使・左衛門少尉叙任でした。
いずれも京都の治安維持に関わる役職であり、義経から見ればこんな風に考えたかもしれません。
「法皇様が俺の働きを認めてくださった! 源氏の名誉だ! 兄上も喜んでくださるに違いない!」
ところが、です。
頼朝からすれば、こう疑惑の対象となってしまう。
「義経め、俺の頭越しに官職を受けるなんて何を考えてるんだ? まさか法皇に媚びて、朝廷に入り込むつもりじゃないだろうな?」
頼朝だけでなく、彼ら清和源氏(河内源氏)は、とにかく血族同士による内輪揉めの多い一族です。
やっとまとまり始めたばかりの源氏軍の中心に、頼朝をないがしろにするような弟がいれば、他家にも示しがつきません。
「なんだアイツ、自分の弟にナメられてるのかwww なら俺達だって従わなくてもいいじゃんwww」
そんな風に思われたら、せっかくの政権も揺らいでしまいます。
義経は素直すぎ、頼朝は確認を怠りすぎ。それがこの兄弟の悲劇の始まりだった……と言えそうです。
嗚呼、源氏、スレ違いがちな一族よ
さらに不幸なことに、彼らには間を取りもってくれる家臣や親族がおりませんでした。
唯一その立場になれそうだったのは、年齢的にも生まれ順的にもちょうど間になる源範頼です。
しかし……彼は彼で、自分の失態を頼朝に詫びていた時期だったので、仲立ちになることは難しかったと思われます。
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優秀なところもあるのにスレ違いがちな一族。嗚呼、源氏って切ないなぁ……(´・ω・`)
頼朝は、警告の意味をこめてなのでしょうか、義経を平家追討から外します。
しかし、文治元年(1185)の年明けには、再び同じ役目を与えて、義経に出陣を命じているのですから、やはり力を認めていたのでしょう。
実際、義経はその後、屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで連勝し、平家追討を成し遂げるのです。
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しかし、ここでも彼はやっちまいました。
壇ノ浦の戦い前に頼朝の家臣・梶原景時と大ゲンカをしてしまったのです。
これがキッカケで、さらに頼朝の不信を招いたといわれています。
もちろん頼朝も、景時の告げ口をすべて鵜呑みにしたわけではなく、それまで続いた不手際や、三種の神器を取り戻せなかった失敗を重く見たのでしょう。
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兄の許しを乞うため鎌倉へ出向くも門前払い
さすがにキナ臭くなってきた空気を感じ取った義経。
兄の許しを乞うために、捕虜となった平家のトップ・平宗盛らを鎌倉に護送するついでに直接弁明しようと試みました。
しかし、源頼朝は門前払い。
それでも諦めず、相模の腰越というところに留まって、頼朝の近臣・大江広元にとりなしてもらおうとします。
結果から言いますと、これもダメ。このとき書いた手紙が【腰越状】として知られています。
本当に義経が書いたものかどうかは不明です。
義経が広元に仲介を頼んだ可能性は高そうですが、腰越状は後世の脚色が多大に入っているでしょう。
もっとも広元は、自ら「成人してから涙を流したことがない」と言うような冷徹な人だったようなので、義経の情に訴えるような物言いや手紙では、取り次ぐ意味なしと判断している可能性は否定できません。
おそらくや広元の兄である中原親能(なかはらちかよし)が、平家討伐で義経に同行していたため、そのツテで広元に頼んだのでしょうが……相手に恵まれませんでしたね。
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