源義経

源義経/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の源義経はどんな生涯を送り最期を迎えた?鎌倉殿の13人菅田将暉

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頼朝と対面した後、範頼と共に京都へ

さて、義経が歴史の表舞台に出てくるのは、それからしばらく経った治承四年(1180年)のことです。

頼朝が挙兵したことを聞き、実兄を助けて父の仇を討とうと意気込みました。

秀衡も賛成し、義経に自分の家臣である佐藤継信・忠信という兄弟と、その他に騎馬武者を数十騎つけてやっています。

これで義経が、頼朝や朝廷に認められれば、その後ろ盾として奥州藤原氏の勢力も強まる……という計算も当然あったでしょう。

頼朝との対面を果たした後、義経はもう一人の兄・源範頼と共に京都へ。

そこで戦功はあったものの、都で狼藉を働いてしまったイトコ・義仲を討ち、源範頼と【一ノ谷の戦い】に臨みます。

【鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし】と呼ばれる、急坂からの奇襲で平家軍を蹴散らし、一躍、英雄視されるようになりました。

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義仲がアレコレと無茶やった直後だったため、京都の人々にとっては、義経の活躍がより鮮明に映ったことでしょう。

一ノ谷の戦いの後、義経は頼朝から「治安回復のため、京都に留まるように」と命じられ、実際、その通りに働きました。

お陰で、後白河法皇や公家たちの信頼を得ています。

しかし、その信頼が仇にもなるから歴史とは残酷なものです。

 

後白河法皇に政治利用されてしまい……

後白河法皇から利用価値を認められてしまった義経は、政争の道具にされてしまいます。

「コイツをうまく使って、頼朝が政治力をつけないようにしよう」ってなワケでして。

その象徴となる出来事が、義経の検非違使・左衛門少尉叙任でした。

いずれも京都の治安維持に関わる役職であり、義経から見ればこんな風に考えたかもしれません。

「法皇様が俺の働きを認めてくださった! 源氏の名誉だ! 兄上も喜んでくださるに違いない!」

ところが、です。

頼朝からすれば、こう疑惑の対象となってしまう。

「義経め、俺の頭越しに官職を受けるなんて何を考えてるんだ? まさか法皇に媚びて、朝廷に入り込むつもりじゃないだろうな?」

頼朝だけでなく、彼ら清和源氏(河内源氏)は、とにかく血族同士による内輪揉めの多い一族です。

やっとまとまり始めたばかりの源氏軍の中心に、頼朝をないがしろにするような弟がいれば、他家にも示しがつきません。

「なんだアイツ、自分の弟にナメられてるのかwww なら俺達だって従わなくてもいいじゃんwww」

そんな風に思われたら、せっかくの政権も揺らいでしまいます。

義経は素直すぎ、頼朝は確認を怠りすぎ。それがこの兄弟の悲劇の始まりだった……と言えそうです。

 

嗚呼、源氏、スレ違いがちな一族よ

さらに不幸なことに、彼らには間を取りもってくれる家臣や親族がおりませんでした。

唯一その立場になれそうだったのは、年齢的にも生まれ順的にもちょうど間になる源範頼です。

しかし……彼は彼で、自分の失態を頼朝に詫びていた時期だったので、仲立ちになることは難しかったと思われます。

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優秀なところもあるのにスレ違いがちな一族。嗚呼、源氏って切ないなぁ……(´・ω・`)

頼朝は、警告の意味をこめてなのでしょうか、義経を平家追討から外します。

しかし、文治元年(1185)の年明けには、再び同じ役目を与えて、義経に出陣を命じているのですから、やはり力を認めていたのでしょう。

実際、義経はその後、屋島の戦い壇ノ浦の戦いで連勝し、平家追討を成し遂げるのです。

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しかし、ここでも彼はやっちまいました。

壇ノ浦の戦い前に頼朝の家臣・梶原景時と大ゲンカをしてしまったのです。

これがキッカケで、さらに頼朝の不信を招いたといわれています。

もちろん頼朝も、景時の告げ口をすべて鵜呑みにしたわけではなく、それまで続いた不手際や、三種の神器を取り戻せなかった失敗を重く見たのでしょう。

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兄の許しを乞うため鎌倉へ出向くも門前払い

さすがにキナ臭くなってきた空気を感じ取った義経。

兄の許しを乞うために、捕虜となった平家のトップ・平宗盛らを鎌倉に護送するついでに直接弁明しようと試みました。

しかし、源頼朝は門前払い。

それでも諦めず、相模の腰越というところに留まって、頼朝の近臣・大江広元にとりなしてもらおうとします。

結果から言いますと、これもダメ。このとき書いた手紙が【腰越状】として知られています。

本当に義経が書いたものかどうかは不明です。

義経が広元に仲介を頼んだ可能性は高そうですが、腰越状は後世の脚色が多大に入っているでしょう。

もっとも広元は、自ら「成人してから涙を流したことがない」と言うような冷徹な人だったようなので、義経の情に訴えるような物言いや手紙では、取り次ぐ意味なしと判断している可能性は否定できません。

おそらくや広元の兄である中原親能(なかはらちかよし)が、平家討伐で義経に同行していたため、そのツテで広元に頼んだのでしょうが……相手に恵まれませんでしたね。

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