誠実な人柄で武芸は達者。
おまけに見た目は超イケメンで、しかも智勇兼ね備えている――。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で中川大志さんが演じる畠山重忠があまりにカッコイイ!
完璧じゃないか!
と思うのは我々だけでなく、昔から「坂東武士の鑑(かがみ)」と称される程の人気ぶりでした。
では一体、坂東武士の鑑とは、どんな武士のことを指すのか?
これが意外と難儀な問題で……考察しましたので、ご一緒に振り返ってみましょう!
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坂東武士の理想とは?
そもそも坂東武士の理想とは?
弓馬に優れ、主君との契りも厚く――なんて想像しがちですが、実は結構定義が難しい問題だったりします。
なぜか?
国語や歴史の授業を思い出してみてください。
『源氏物語』にせよ、『枕草子』にせよ。
中世日本人の精神性として習うのは京都王朝周辺となりがちです。
では坂東武士は?
というと、当時の彼等は、自分たちの思いをスラスラと記すことも無く、素朴に生きていました。
要は朴訥であり、そうペラペラと理想を語ったりするような文化でもなかったのです。
ただ、それも鎌倉時代になると、少しずつ変化は見られ、文章や絵巻物に武士たちの世界観が少しずつ反映されていくようになります。
問題は、当時の理想像がそのまま現代へ伝わりきってないことでしょう。
武士も一歩ずつ知性と教養を身につけ、それが徐々にアップデートされて今に伝わっているため、「坂東武士の鑑」の原型がそこにキッチリあるわけではないのです。
例えば、要注意なのが新渡戸稲造『武士道』です。
いかにも「武士の理想や心構え」が描かれていそうなこの一冊。
本書がなぜ記されたのか?と申しますと、
・日露戦争の一応の勝利により、盛り上がった世間の期待に応じるため
・西洋諸国からの問いに答えるため(プロテスタントの規範のようなものが日本にもあるか?と問われたりした)
上記のような理由があったからであり、鎌倉武士について語っているものではありません。
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『武士道』は、第二次世界大戦で日本が敗北すると、戦前の思想に影響を与えたのではないか?として、こんな風にも言われました。
「軍隊における数々の悪行は、武士道の悪い影響のせいではないか?」
武士道は、時代と共に変わっていくものです。
ゆえに「坂東武士の鑑」を定義するには、時間をキッチリ800年巻き戻さねばならない。
分厚いベールを剥ぎ取り、坂東武士の理想像を考えてみましょう。
一所懸命
坂東武士を示す言葉として、典型的なものがあります。
一所懸命
武士が先祖代々の領地を守るために、全力で生きてゆく。
そんな有様を示す言葉であり「一生懸命」と表記されたりもしますね。
どちらも正解とされますが、ともかく本来は「一所を守る」という意味であったことが大事なのです。
領地を守ることが第一で、それ以外は二の次。そんな生き方とはどのようなものでしょうか。
「色好み」ではない
『鎌倉殿の13人』では、畠山重忠の美男ぶりが印象に残ります。
坂東でも京都でも。
若い娘たちが袖を引き合いながらその美貌にどよめいていた。
京都に登った重忠は、そうした反応をされてもそこまで喜びません。
「そろそろ嫁が欲しい……」と、そっと言う程度。
隣にいた北条義時が「妹がまだ二人嫁いでいないがどうだ」というと、前向きな反応を見せ、実際、義時の妹と結婚しています。
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重忠の結婚へのアプローチは堅実です。
どうせなら美人がよいとか、タイプはこうだとか、そういう要素はない。
ただ幼馴染でよく知っている義時の妹ならばちょうどよいと判断していました。
次から次へと女子に手を出していた源頼朝とはまるで違いますよね。
これも坂東武士の鑑らしい態度といえます。
『徒然草』第三段にはこうあります。
万にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(し、酒杯のこと)の当なき心地ぞすべき。
どんなに才能が溢れていようと、色を好まない男というのは、どうにもイケてなくて、まるで綺麗な盃なのに底がないような気持ちになってしまうんですね。
とまぁ、なかなかの言われようですが、これはあくまで京都の感覚です。
兼好法師は、坂東武士の存在など1ミリも気にしていないでしょう。
反対に、坂東武士からすればこうなります。
「そんな色恋沙汰にかまけているようじゃ、軟弱でいけねぇなぁ」
坂東武士にとって結婚とは、色恋沙汰を嗜むというより、あくまで家と財産を維持するためのものでした。
美人かどうか、好みのタイプであるかどうかは二の次。
できれば、ご近所同士で親戚付き合いをし、家と土地を守ってゆくことが最善なのです。
ですので、畠山重忠が北条氏の娘を結婚相手としたのも、坂東武士としては家柄も釣り合い、丁度良かった。
逆に、いちいちと自分の好みを挟むようでは軟弱であり、もし重忠がそんな事しようものなら「おいおい、らしくねえんじゃねえか!」と言われたことでしょう。
そんな坂東武士たちからすれば、頼朝など、いかに情けなく、武士として魅力の薄いことか。
頼朝に対する不満は度々爆発しそうになっていますが、そもそも土壌があったのですね。
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質実剛健で質素を好む
色好みは、何も恋愛感情に限りません。
花鳥風月に魅力を見出す心にもつながり、物欲へ発展すると贅沢から身を崩して厄介。
坂東武士は質実剛健を掲げ、消費行動を抑制する傾向はありました。
しかし世がうつろえば、そうとも言ってはいられません。
鎌倉の浜辺では青磁を見つけることができます。
畠山重忠より下の世代が、ブランド品を買い漁った名残が現在まで残されているのです。
これが、もっと時代がくだった戦国時代になると、どれだけ素晴らしい衣装を身につけ、茶道具を持つか、美的センスと財力も競われるようにもなりました。
坂東武士には、そうなる以前の、プロトタイプな武士の姿を見出すことができます。
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武勇を悪事に用いない
武士は暴力を振るう職業といえます。
殺人も辞さない。
それが世の習いであり、彼等の行為を正当化するためには
・善悪をきっちりと判断する
という前提が必要になってきます。
遊び半分で誰かを殴るとか。宝物欲しさに寺を襲撃するとか。本来なら許されません。
しかし、実質的に取り締まる術はなく、ゆえに武士が強盗殺人をすることもありました。
『源氏物語』の世界では、そこまで盗賊がウロウロしている印象は受けませんよね?
だから、あの平安世界はおかしい……のでは、ありません。
『源氏物語』は、検非違使が取り締まっていた洛中だからこその安全な世界であり、上流階級ならではのことでした。
同時代の話でも『今昔物語集』ともなれば、盗賊の話が一ジャンルとして成立しています。
当時の貴族は京都から出ることを極端に恐れていました。
彼らからすれば治安が悪い地方に行くことは、あまりに危険で恐ろしいものであったのです。
そうした地方にいる武装集団には、武士が含まれます。
武士がひとたび暴力に囚われたら、山でも海でも市街でも、人を襲撃してしまう。
畠山重忠のように、堕落を避けたい高潔な人物は、そうした暴力に溺れないようにするため、自らを固く律する必要があった。
現代人からすれば当然としか言いようがないことも、中世ではそうではなかったのです。
だからこそ
「あの人マジで凄いわ! 相手が舐め腐った態度でも、そいつを殺したりしねえんだぜ!」
なんてウソみたい状態みたいな状況があっても不思議ではありません。
北条義時の三男・北条重時は、嫡男・長時のため家法「六波羅殿御家訓」を記しました。
そこにこうあります。
時トシテ何ニ腹立事アリトモ、人ヲ殺害スベカラズ。
どんなにむしゃくしゃしても、カッとなって人を殺してはいけません。
こんな恐ろしいことを、わざわざ注意されるということは、普段は平気で殺していたということでしょう。
逆に「鑑」とされる重忠は、たとえどれだけムシャクシャしても、殺人などしなかったでしょう。
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