北条時政

北条時政(画:歌川芳虎)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の北条時政は権力欲に溺れてしまうのか 鎌倉殿の13人坂東彌十郎

京都美人の妻りく(牧の方)にメロメロかと思ったら。

自分より勢力の大きい伊東祐親と真正面からケンカをするなど。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の序盤に、気の好い親父キャラで人気を博した北条時政が、頼朝の死後、急速におかしくなりつつあります。

娘婿の阿野全成を鎌倉殿に仕立てあげようとするなど、とにかく強引な行動が目立ち、息子の北条義時も困惑しているほどです。

いったい時政はどうしたのか?

あの姿の方が史実に近いのか?

そんな疑問を抱かれるかもしれませんが、実際のところ、妻であるりく(牧の方)と共に、時政は次々にドでかい騒動をやらかします。

そして最終的には義時と政子を敵に回して失脚してしまう――北条時政、史実の生涯を振り返ってみましょう。

 

北条時政は桓武平氏の出自?

北条時政の若い頃は、一言でいえば謎。

なんせ当時の北条氏は、時政以前もほとんど不明で、

桓武平氏の平直方を始祖とする】

という点でこそ複数の資料で一致しますが、時政までに何代あったのかも不明ですし、時政父(義時にとっては祖父)の名前すら諸説あって確定していません。

そんな調子ですから、彼らの出自についても、

◆代々伊豆や田方郡北条(静岡県田方郡韮山町)に住んでいた名士説

◆伊豆国の在庁官人説

とアヤフヤ。

身分や由緒のある家ほど自分たちの記録を事細かに残すものですから、仮に、北条氏が桓武平氏の流れを汲んでいたとしても、当時はあまり身分の高くない家だったことは間違いでしょう。

時政は、父だけでなく兄弟関係についても不明です。

鎌倉時代の史書である『吾妻鏡』にも登場せずで、乳幼児の死亡率が非常に高い時代ですから、おそらく幼いうちに亡くなっていたのでしょう。

では時政が成長した時期については?

『曾我物語』『源平盛衰記』などによれば、

◆永暦元年(1160年)3月、伊東祐親とともに源頼朝の監視役を命じられた

とされています。

出ましたね、伊東祐親。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではもはやおなじみ、娘の八重姫が、源頼朝の子となる千鶴丸を産み、その千鶴丸を川で殺害させた祖父です。

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この祐親とは後に対立しますが、本稿は、時政を中心に描いていきますので、いったん脇に置き、時系列で見ていきますと……。

時政は嘉応二年(1170年)4月、流刑先の伊豆大島で反乱を起した源為朝の討伐に参加していた、なんて話もあります。

為朝は、弓馬が重要視された当時の武家社会において、圧倒的強さで知られる武人(弓馬は弓術と馬術ではなく歩射と騎射を意味するほど)。

源義朝の弟ですので、頼朝から見れば叔父に当たります。

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時政が、その辺とも絡んでいたら面白いんですけど、この話が果たしてどこまで本当か、不明です。

さすがに古い時代のことだけに不確かな話も多く、先程の、伊東祐親の娘・八重姫と源頼朝の子供がバレるのも、正確な時期はわかっていません。

おそらく1175年頃の話とされ、時政周辺の時代が一気に動くのは、治承元年(1177年)から翌年にかけてのことでした。

 

留守中に政子が頼朝の子を……

当時、北条時政は京都大番役のために上洛していました。

京都大番役とは、地方武士に課せられた義務の一つ。

文字通り「京都で警備をしなさい」というもので、経済的負担が大きな任務でありました。

なんせ数年に渡って在京しなければならず、その間の費用は自分持ちだったからです。

留守の間に

・地元で親族が揉め事を起こしたり

・当主が京都で急死して御家騒動になったり

骨肉の争いの遠因になるケースもありました。

北条時政については、一族内での争いこそありませんでしたが、別の問題が発生していました。

なんと、今度は娘の北条政子が源頼朝とねんごろになっていただけでなく、長女の大姫も産んでいたのです!

「あれ? タイミングが違くない?」

と大河ドラマをご覧になられた方は疑問に思うかもしれません。

『鎌倉殿の13人』では、時政が大番役から帰ってきてから頼朝と政子は顔見知りになっていました。

しかし、史実において政子と頼朝がくっついた時期は、明確には定まっておりません。

本稿では『人物叢書 北条政子』(→amazon)を典拠として、この段階で長女・大姫が生まれていた設定で進めさせていただきますね。

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時政にはこのとき、大きくわけて二つの道がありました。

ひとつは、伊東祐親のように、この事実を拒絶し、娘を別れさせること。

もうひとつは、腹をくくって頼朝の一党として動くこと。

実は時政、始めは前者を選ぼうとしていた節があります。政子を伊豆国目代・山木兼隆に嫁がせようとしたのです。

しかし、当の政子が兼隆との結婚を断固拒否。湯山権現にいた頼朝の下へ逃げたため、時政は二人の仲を認めざるを得なくなったのでした。

当然、頼朝に賭けるのは、相当、分の悪いギャンブルです。

そもそも頼朝が助かったのは、池禅尼や上西門院などの助命嘆願が叶った、例外中の例外と言える。

当時は、流罪が事実上の最高刑罰であり、そんな状況にある者と娘を縁付かせても、全くメリットがありません。

子供ができたと言っても、血が繋がっていく限り、平家にバレたら洒落にもならない。

「罪人との血を残すなど言語道断! いずれ平家に害をなすに違いない! 頼朝と政子の間に生まれた子供は処刑! 時政も監督不行き届きで断罪!」

なんて判断されたら、頼朝も北条も潰されて終わりでしょう。

ただし、幸い、このことは平家には知られなかったようで、時政に訴追が及ぶことはありませんでした。

八重の子供が男児で、政子に生まれた子供が娘だったことも幸いしたかもしれません。

ちなみに政子は当時20歳を過ぎていて晩婚の類です。頼朝も政子より10歳上で、これまたいい歳でした。

二人がいろいろと盛り上がったのは、これらのスリリングな要因が重なったためかもしれませんね。

そして治承四年(1180年)、ついにその頼朝が動きます。

以仁王(後白河天皇の第三皇子)の令旨が飛ばされ、8月に挙兵したのです。

 

石橋山の戦い

頼朝が治承四年(1180年)に挙兵したとき、北条時政は何歳だったのか?

北条一家全体の年齢を確認しておきますと……。

時政 43歳
宗時 不明
政子 24歳
義時 18歳
時房 6歳

義時の兄で当時の嫡男・宗時は生年不明ですが、当然義時よりは上でしょう。

また、時政には政子の他にも娘がいて、彼女らの年齢も不明となっています。

これに対し、源平の代表者たちは何歳だったのか?

源頼朝 34歳
平清盛 63歳

清盛は、このころまだ壮健だったものの、当時の寿命を考えればいつポックリ逝ってもおかしくありません。

頼朝にとっては「(倒すためには)もう後がない!」ワケで、実際、頼朝が討つ前に清盛は病死してしまいました。

そのため、死後に頼朝から講和を申し出たこともあったのですが、清盛が「我が墓前に頼朝の首を供えよ」と遺言したことや、後を継いだ平宗盛の意地などもあって、講和は破談となっています。

挙兵に話を戻しましょう。

治承四年(1180年)5月、以仁王の令旨をうけた頼朝は、時政らと共に挙兵の計画を練ると、同年8月、山木兼隆を討って門出の血祭りとしました。

時政にとっては、かつて娘婿候補だった相手ですので、少々複雑な心境だったかもしれません。

しかし、そんな悠長なことを言ってる場合でもなくなります。

源頼朝や北条時政らは直後【石橋山での戦い】に敗れ、軍は散り散りになってしまうのです。時政は頼朝と別れ、別々に海路で安房へ向かいました。

その後、無事に頼朝と合流。

時政は義時を連れて、甲斐源氏の下へ援軍を求める使者になりました。

そして10月、武田信義を中心とした甲斐・信濃の軍と共に駿河国黄瀬川(静岡県沼津市)で頼朝らと合流。

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時政が前線に立ったのはここまでで、以降、治承・寿永の乱(源平合戦)の間は鎌倉で頼朝の補佐を務めています。

政子の父という超重要な立場であるにも関わらず、時政に武将としてのイメージがあまり強くないのはこのためかもしれません。

なお、義時は源範頼とともに西国へ渡っています。

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文治の勅許

ここからしばらく時政は“地味”な期間に入ります。

文治元年(1185年)10月、源義経に対し、源頼朝から追討の宣旨が下り、兄弟の対立が決定的なものになりました。

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頼朝や多くの武将が義経の追捕でてんやわんやしている間、時政は京都で治安維持などの仕事をしています。

厳密に言うと、時政も当初は義経追討のために上方へ行ったのですが、

「どうも、義経は京都周辺から逃げたらしい」

という情報が入り、追討よりも治安維持の役割に比重が置かれたのでした。

京では、義経寄りだった院の近臣を処分したり、兵糧米の徴収を認めさせたり、派手ではないものの重要な仕事を果たしています。

既に大番役で上洛したことがあったためか、頼朝の舅だからか、それとも吾妻鏡のヨイショなのか、

後白河法皇も時政を頼りにしていた」

とされるほどです。

腹黒さはともかく、時政が能吏に分類されることは間違いありませんので、かえって判断が難しいところです。

また、この時期に時政の奏請によって”文治の勅許”がくだされたとされています。

守護地頭の設置ですね。

頼朝のブレーンの一人・大江広元が以下のように発案したのが始まりだとされています。

「諸国は未だ治まっておらず、その度に鎮圧軍を差し向けるのは費用がかかりすぎます。朝廷の許可を受けた上で、各地に武士を駐在させられる仕組みを作るのがよろしいでしょう」

※ただし守護・地頭の発案者や経緯については諸説あります

時政は法皇からの覚えもめでたかったようで、文治二年(1186年)の初めには、七カ国の地頭職を与えられました。

現代では、地頭というと鎌倉幕府の役職というイメージが強いですが、これは元々朝廷の役職。

ですので、法皇から朝臣に地頭職が与えられるということは、不自然ではありません。

しかし、多くの御家人が法皇から直接任官されると、頼朝の怒りを買うのは避けられない。

そもそも、大目玉を食らった義経を追討するため、時政は上方へやってきたのですから、「法皇に気に入られるのはいいんだけど、任官を受けっぱなしにしておくと頼朝様が恐ろしい」ことは充分理解していたと思われます。

なんせ時政は文治二年の3月、七カ国の地頭をあっさり辞退しています。

その後は甥の時定や、頼朝の妹婿・一条能保に上方のことを任せ、時政本人は鎌倉へ戻りました。

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