北条政子

源平・鎌倉・室町

史実の北条政子はどこまで鎌倉幕府を支えたか?鎌倉殿の13人小池栄子

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平家滅亡

平家軍が瀬戸内海に逃げ込むと、頼朝は最後の仕上げにかかります。

源範頼らを送って九州の武士に協力を取り付けようとしました。

しかし、九州の武士は平家方が多く、兵糧や馬・船がなかなか揃いません。ここで無理強いをすれば、源氏への心証が悪くなって話がこじれてしまいます。

頼朝は決して手荒なことをしないように、と何度も書き送っていました。範頼たちもそれをよく理解し、時間をかけて九州の武士たちから協力してもらうことに成功します。

その間に士気が落ちていることを危惧し、頼朝は京都にいた源義経にも出陣を命じています。

このころの義経は、頼朝を介さずに朝廷から検非違使に任官されており、兄弟仲が不穏になりつつある頃。

しかし、義仲軍によって荒れていた京都の治安を回復させたことなどにより、民衆や兵からの人気は抜群だったため、頼朝はその影響力をうまく使おうとしたのでしょう。

北条政子は、頼朝と一緒に鎌倉で所々の寺社へ詣で、ひたすら戦勝祈願と供養をしていました。

そのうち【屋島の戦い】、続いて【壇ノ浦の戦い】における勝報が届き、平家に関する憂いはなくなります。

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この年は『吾妻鏡』の記述が少ない年なので断言できませんが、おそらくこのころ政子は次女・三幡を出産したと思われます。

後々の三幡の享年からすると少しのズレは生じる一方、この時期に「頼朝が常陸介時長の娘を寵愛していた」という記録があるからです。懲りん人ですな。

政子が妊娠・出産していた時期だからこそ、また別の女性に気を移したと考えれば辻褄は合うでしょう。

出産との前後関係は不明ながら、政子に関するこんな話もあります。

壇ノ浦の戦いの後、京都にいた木曽義仲の妹・宮菊が鎌倉へやってきました。

政治的なことにあまり関わっていなかったのですが、彼女の名を借りて周辺の武士が荘園を荒らすという事件が相次ぎ、宮菊は肩身の狭い思いをしていました。

義仲の滅亡は自業自得でしたが、宮菊個人には関係のないことですからね。

不憫に思った政子は、宮菊に一度鎌倉へ来るよう勧めています。

頼朝も妻の意見に賛成し、親戚の誼で美濃のとある村を宮菊に与え、生活が立ち行くようにしました。

 

静御前の舞

北条政子は、行き場や後ろ盾のない女性に対して、特に優しく接した逸話を多く持っています。

平家滅亡後、立ち回りに失敗して失脚した義経の愛称・静御前との逸話もその一つでしょう。

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この頃、静御前は上方から逃げる途中で義経とはぐれて捕まっており、母の磯禅師と共に鎌倉へ連行されてきていました。

京都での証言と鎌倉での証言が食い違っていたため、頼朝からかなり厳しい目で見られ、厳しい立場になっていたようです。

しかし妊娠中の身であることなどから、政子は同情の目で見ていました。

頼朝が好感を持てるようにか、鶴岡八幡宮を参拝したとき、静を呼び出して舞を所望しています。

罪人扱いを受けている静としては、あまり気の進まないことでした。

しかし政子は、こう説得します。

「天下の舞の名手がこの地に来て近く京都へ帰るというのに、その芸を見ないのは残念です。

ただの見世物ではなく、八幡大菩薩に供えるのだから恥ではありませんよ」

こうなると静も断りきれず、渋々ではあったが舞うことに。

静御前の舞を描いた錦絵(頼朝は画面左奥に)/国立国会図書館蔵

ここで

よし野山 みねのしら雪 ふみ分て いりにし人の あとぞこひしき

しづやしづ しづのをだまき くり返し 音を今に なすよしもがな

という義経を慕う歌に合わせて舞ったので、かえって頼朝は怒ってしまった……という有名な話があります。

「八幡宮に供えるために舞えといったのに、反逆者である義経を想う歌を使うなどもってのほか!」

そんな頼朝に対し、政子は冷静に説得。

「そうはいっても、行方の知れない夫を案じるのは妻として当然のこと。

石橋山の合戦の後、私も貴方様の行方がわからず、魂が消えるような心地でした。私には静殿の気持ちがよくわかります。

今は追われる身とはいえ、義経殿に長年愛されたことを忘れるなど、女性として有り得べからざることです。

ですからどうぞご勘弁ください」

頼朝も、これにはハッとしたらしく、怒りを収め、静に褒美を与えたといいます。

また、静の滞在中、長女の大姫は病気快癒のため、祖父・源義朝を祀る御堂に参籠していました。静はこの御堂にも舞を納めています。

政子が娘のために、この御堂へ舞を奉納してほしいと静に頼んだのかもしれません。

静としても、公衆の面前で過去を語ってまで自分の味方をしてくれた政子に、少しでも恩返しを……という気持ちだったのではないでしょうか。

そうこうしているうちに、静の出産が近づいてきたので、もうしばらく鎌倉にとどまることになりました。

生まれたのは……残念ながら男児でした。本来ではめでたいことも、この状況では末路は一途。幼いからといって見逃すと、いずれ父の仇を討つために牙を向きかねません。

政子もそれは承知の上で助命を願い出ましたが、頼朝自身が似たような経緯をたどってきているだけに、許すことはできませんでした。

静は出産から2ヶ月ほどして、母と共に京都へ帰っています。政子と大姫は哀れに思い、餞別の品をいろいろ送ったとか。

その後、静と磯禅師の消息は不明です。

 

後白河法皇の崩御と源実朝の出産

静御前とは別に、奥州藤原氏に匿われた源義経。

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父・藤原秀衡のスタンスを無視した息子の藤原泰衡は、頼朝の圧迫によって義経の首を取ります。

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しかし、それが頼朝の怒りを買い、今度は奥州藤原氏が討たれることになりました。

頼朝本人の出征は九年ぶりのことです。

相手は奥州を代表する大勢力。さすがの北条政子も心配になったようで、近辺の女房達とともに鶴岡八幡宮へお百度参りをして無事を祈ったといいます。

この戦には政子の弟・北条義時も参加していたので、心配も一層のことだったのかもしれません。

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霊験あってか、戦は無事に鎌倉方の勝利。

神仏の加護が実在するかどうかはわかりませんが、少なくとも政子はそう感じたのではないでしょうか。頼朝凱旋の後に鶴岡八幡宮へお礼参りをし、神楽を奉納しています。

さらに時代は動きます。

建久三年(1192年)3月、頼朝や源氏とは複雑な関係だった後白河法皇が崩御。

代わって治天の君(実際に政治を行う天皇や上皇・法皇)となった後鳥羽天皇によって、同年7月に頼朝が征夷大将軍に任じられました。

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また、同年8月に政子は次男・実朝を出産。

今回もやはり頼朝は大進の局という愛人のもとに通っており、間に庶子をもうけていました。ある意味マメというかなんというか……。

政子からすればやはり耐え難いことで、この息子は後に京都に送られ、仁和寺で出家して貞暁と名乗ることになります。

同時期に別の不幸もありました。

 

範頼と大姫の不幸

不幸の一つ目は、頼朝の弟・源範頼です。

発端は、頼朝が頼家を連れて富士野の巻狩に出かけたこと。

頼家が鹿を射取ったというので頼朝は喜び、北条政子に知らせたのですが、彼女は使者を叱りつけます。

「武将の息子が狩りで獲物を得るくらいのことは当然、わざわざ知らせるほどのことではありません」

この話は頼朝の子煩悩ぶりや、北条政子の気の強さが出ているなど、さまざまに評価されている有名な話ですね。

問題は、この外出の間のこと。

日本三大敵討ちで有名な【曾我兄弟の仇討ち】が起きるのです。

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言ってみればテロ行為ですから情報が錯綜し、鎌倉には「頼朝が討たれた」という噂も流れてしまいます。

当然、政子も穏やかではおられず、これに対し、留守番役をしていた範頼が政子を慰めようと、

「私がこの通りついていますので、後のことは心配いりません」

と言ったのがまずいことになりました。

範頼の性格からして、裏のある言ではなかったと思われますが……このことを後に政子から聞いた頼朝は、

「あいつ、この隙に将軍の地位を横取りするつもりなのか?」

と疑ってしまいます。

源範頼は起請文を出して無実を訴えます。

しかし、範頼の家臣が主人のため何か情報を得ようと、頼朝の寝所の床下に忍びこんだため、かえって疑いが深くなってしまいました。

隣室で聞き耳を立てるならばまだしも、よりにもよって床下では、暗殺を企てていたととらえられても仕方がありません。

源範頼は伊豆に流され、そのまま亡くなりました。暗殺説もあります。

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もう一つの不幸は、大姫の病気でした。

このころ大姫の容態は、頼朝や政子の平癒祈願をよそに、一進一退の域を出ない状況が続いていたのです。

頼朝や政子は結婚を勧めたり、旅行に行ったりして大姫を明るい気分にしようとしましたたが、ほとんど効果はなく。

やはり最初の婚約者・義高を想う気持ちが強かったのでしょう。幼い頃から共に暮らしていれば、それも仕方のないことです。

頼朝は最後の手段として、京都への家族旅行を決めます。

もちろんただの娯楽ではなく、東大寺再建を始め、京都・奈良の寺社参拝や、宮廷への政治工作などいろいろな目的がありました。

それらの用事を片付けながら、当時十六歳の後鳥羽天皇の後宮に、大姫を入れる工作をしようとしていたのではないかと言われています。

野心だけでなく、全く違った環境に行かせることで、大姫の気分を切り替えさせて健康に……という親心もあったのでしょう。

当時、後鳥羽天皇の寵愛を受けていた女性は二人。

関白・九条兼実の娘である任子(宜秋門院)と、源通親の養女・在子(承明門院)です。

そしてこの建久六年(1195年)8月に任子は皇女を、11月に在子は皇子(後の土御門天皇)を産みました。

頼朝一家の京都旅行の時点では、二人ともまだ出産前ですし、兼実は頼朝を政治的な味方につけようとすべく、大姫入内に協力するつもりでいました。

しかし、兼実とは政治的に反発していた人々もいて、大姫の入内は実現しません。

「源氏が平家と同じように、外戚となって権勢をふるい、横暴を働くのではないか?」と思われても仕方がないですしね……。

頼朝一家は4ヶ月ほど京都に滞在して、6月に鎌倉への帰路につきました。

途中、美濃で政子の妹(御家人・稲毛重成の妻)が危篤と知らされ、頼朝たちに同行していた重成は馬を賜って一人急いで鎌倉へ帰っています。

しかし臨終に間に合わず、重成は嘆き悲しんで出家。

政子も妹の喪に服しました。

その一方で、大姫の病気がまた重くなってしまいます。これは長旅が体に障ったものでしょうか。

一時は高僧の祈祷で持ち直したものの、建久八年(1197年)7月14日に大姫は20歳(または19歳)で亡くなっています。

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