北条政子

源平・鎌倉・室町

史実の北条政子はどこまで鎌倉幕府を支えたか?鎌倉殿の13人小池栄子

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文治的な実朝に反発する勢力も

源実朝は、後鳥羽上皇との関係も良いものでした。

小倉百人一首の選者・藤原定家に師事して和歌を学び、それを通して上皇と関係を築いていたのです。

母である北条政子にとって唯一の心配は、実朝も生来病弱な質だったことです。

数日休養することも珍しくなく、17歳のときには疱瘡を患って、近隣の御家人が鎌倉に集まってくるほどでした。

体を強くするには、やはり武芸に励むのが一番。武家の棟梁としても、ある程度「弓馬の道」に長けていなければ、御家人たちがついてきません。

そこで政子は、義時や広元を通して、弓の稽古や狩りに出かけることを勧めました。

実朝は生来おとなしい質でしたから、母の言いつけに従っています。

しかし、武芸や狩りそのものよりは、その後催される宴のほうが面白かったようです。乱暴を好むよりはマシですが、政子としてはもう少し雄々しさが欲しかったでしょうね。

政子は、実朝だけでなく周囲の人間関係にも心を配りました。

後々の禍根にならないよう、頼家の遺児・公暁を実朝の養子にしてから仏門に入れたり、同じく頼家の娘を実朝の妻・信子の養女にして生活が立ち行くようにしたり、細々と世話を焼いています。

しかし、和田合戦で実朝の頼りにしていた和田義盛が滅び、北条義時の力が強まると、実朝は政治への興味を一層なくして風雅の道へ入っていきました。

もしかして自分が出しゃばろうとすれば義時に滅ぼされると勘が働いていたのかもしれません。

これがまた、御家人の反発を招きました。特に長沼宗政という気性の荒い御家人が、実朝を悪罵した件が伝わっています。

その理由を見ておきましょう。

頼朝の死後、北条氏による有力御家人の排斥は続いており、そのターゲットになったうちの一人に畠山重忠という人がいました。

重忠は武蔵の武士たちを取りまとめる立場にあり、頼朝以来の功臣。

梶原景時の変・比企能員の変では、いずれも北条氏についていたのですが……順番が来てしまった、ということでしょう。

遠因は、実朝の結婚前に遡ります。

実朝の妻・坊門信子を迎えるため、御家人たちが上洛し、京都で交渉役をしていた平賀朝雅の邸へ向かったときのことです。

このとき重忠の息子・畠山重保が平賀朝雅と口論となり、それ以来二人の仲がこじれてしまいました。

それだけならどうってことはないのですが、半年ほどたったころ「鎌倉が不穏な情勢になっている」という噂が立ち、御家人たちが集まってきました。

中には畠山重忠もおり、このときは一旦静まったのですが……この後、朝雅が北条時政の後妻・牧の方に重保との口論の件を話しました。

これを牧の方が曲解し「畠山父子は謀反を企んでいるに違いありません!」と時政にゴネ、時政もこれを信じてしまいます。

そして時政から息子である北条義時・北条時房の兄弟に重忠討伐が命じられました。

二人は討伐に大反対。

「重忠の日頃の行いには全く問題がなく、謀反など考えられません」

しかし、牧の方の兄・大岡時親に詰め寄られます。

「継母の言うことは聞けないというわけか?」

結果、義時らは仕方なく畠山氏を討ってしまいました。

それから数年後、出家していた末の息子・畠山重慶(ちょうけい)にも疑いがかかります。

実朝は、重忠に罪がなかったこと、重慶が僧侶であることからあまり疑っていなかったようですが、取り調べのために重慶を連れてくるよう、長沼宗政へ命じます。

しかし、あろうことか宗政は、重慶の首を斬って持ってきました。

現代日本に置き換えるとすれば、裁判前の容疑者を警察官が勝手にブッコロしてしまったようなもので、当然、実朝も問題視しました。

それに対する宗政の言い分が、こうです。

「今の将軍は和歌や蹴鞠ばかりを重んじて、武芸をやらず、まるで女のようだ。

滅んだ者の領地も武士ではなく女に分け与えてしまうし、武士ではなく女が主のようなもの。

罪人を連れて帰ったところで、女の訴えで許してしまうだろうから殺したのだ」

宗政は元々気が短く荒っぽい人物だったようですので、日頃から鬱憤が溜まっていたのでしょう。大人しく文芸を好む実朝が余程気に入らなかったとみえます。

前述の橋の一件などからすると、実朝がそこまで情に流されるタイプとも思えません。

長慶の件に対しても、実朝は宗政を叱責・処罰するのではなく、

「出家の身でいかに陰謀を巡らしたとしても、大したことはなかっただろう。何か企んでいたのなら罰するべきだが、まずはきちんと取り調べるべきだった」

と、落ち着いて反論したようです。

この冷静さも、宗政にとっては癪に障ったのでしょうかね。

誰かがここで義経と奥州藤原氏の例を引いて

「捕らえよという命令を聞かず勝手に殺すのは不届きであり、討たれる側になっても文句は言えない」

とでも言ってくれればよかったのかもしれません。

北条政子や大江広元ならば、そうした説得の仕方もできたかもしれませんが、実朝としても、宗政がこれ以上反発することを避けたのかもしれません。

 

孫の公暁が息子の実朝を暗殺

このころ北条政子は齢60を超えてまだまだ壮健。

実朝と幕府の安泰を祈るため、熊野詣に出かけていました。

このときは弟の北条時房を連れ、妹の孫娘の縁組を取りまとめるという公的な仕事も目的としています。

そして、無事政子が鎌倉へ帰ってくると、実朝が「宋に渡りたい」と言い出しました。

しかも、この一件と前後して実朝の官位昇進が早くなり、政子や広元の心配を招いています。

建保元年(1213年)正三位

建保四年(1216年)権中納言兼左近衛中将

建保六年(1218年)権大納言、左近衛大将、右大臣

古来より、分不相応に高い官位につくと、神罰があたって早死するといわれていました。

そのため政子や義時、広元はこのような急な昇進は辞退すべきではないか、と実朝に勧めたそうです。

しかし、実朝は理路整然と答えます。

「そのことはよくわかっているが、源氏の血は自分の代で絶えようとしている。

子孫にあとを伝えるという望みはないのだから、自分が高官に昇って家名を高めたいのだ」

これには皆返す言葉がなかったといいます。

肩書とはいえ、右大臣は人臣の位としてはナンバー3という高官(太政大臣を含めた場合)。

武士の世間的な地位がまだまだ低かったこの時期としては、恐れ多いと感じるのもごく当然のことでした。

実朝にとっては迷信の類にしか思えなかったのかもしれません。しかし……。

建保七年(1219年)1月27日、実朝が鶴岡八幡宮へ拝賀を行った帰り道のことでした。

階段脇の大銀杏から飛び出してきたのは兄・頼家の息子である公暁。

実朝にとっては甥っ子に、突如として斬られ、落命してしまいます。

公暁はその場で捕まり斬られ、あろうことか北条政子は、自身が生きている間に夫と子供全員を喪ってしまうのです。

しかも孫が息子を殺すのですから、これ以上の不幸はなく。

常人であれば心を病んでしまいそうですが、せっかくできた武士政権を水泡に帰すわけにはいかないと考えたのか。

実朝の葬儀を済ませると、政子は直ちに京へ使いを出し、こんな願いを申し出ます。

「後鳥羽上皇の皇子のうち、お一方を将軍として鎌倉へ下していただけませんか」

書面には政子の他、幕府の宿老が連署し、鎌倉一同の希望であることが示されていました。

朝廷にとって、皇子が関東に下るということは、さすがに重大です。

すぐには許可が降りず、上皇は「摂関家の子なら許そう」と譲歩。そこで、鎌倉では相談の結果、左大臣・九条道家の子である頼経を迎えることにしました。

頼経はまだ生まれたばかりの幼児ですが、頼朝の妹のひ孫にあたりますので、源氏の血は引いています。

「京から鎌倉への道中、一度も泣かなかった」というほどおとなしい子供だったそうで、将軍就任後、実務については政子や広元が担いました。

尼将軍――そんな風に呼ばれるようになるのは、この頃からです。

 

承久の乱

政務と頼経の教育、そして実朝らの供養など。

北条政子にとって忙しい日々が過ぎていきます。

公家から将軍を迎えたことにより、幕府と朝廷の関係は良好になった……と思いたいところですが、残念ながらそうは行きませんでした。

鎌倉時代の一大事件である【承久の乱】が忍び寄っていました。

元々、朝廷は、自分たちこそが正当な為政者であり、幕府の権力強化は本意ではありません。

坂東武者の荒々しさも目に余ったのでしょう。度重なる将軍の不始末や暗殺、御家人の粛清などを見ていれば、後鳥羽上皇が朝廷復権を考えても自然なことです。

さらに幕府の中心だった源氏の直系が絶えた上に、皇族を将軍として鎌倉へよこせというのも、分不相応甚だしいと感じられたのではないでしょうか。

そうした中で、ついに幕府の中心人物・北条義時への調伏が行われてしまいます。

調伏とは、敵を倒すために行われる祈祷のこと。

現代人から見ると「何の意味があるの?」とも思えてしまいますが、当時は神仏や祈り・呪いの力が強く信じられていましたので、重大なことでした。

そしてついに……。

「後鳥羽上皇が諸国の武士を集めて、倒幕の兵を挙げた!」

京都にいた御家人の伊賀光季と、親幕府派の公家・西園寺公経から、鎌倉へ同時に報せが届きました。

密告したことは上皇方にばれ、公経は幽閉され、光季は上皇の兵によって殺されます。朝廷側の本気さがうかがえますね。

続いて上皇は正式に【北条義時追討】の命令を出しました。

突如知らされた鎌倉の御家人たちにとっては、寝耳に水だったことでしょう。

多くの御家人が動揺している中で、関東の武士にも上皇から「義時を討つべし」という命令が出されています。

さすがの義時や北条一門もどうすべきか迷いました。

これまで重大なことについては宿老である大江広元の意見が重視されがちでしたが、彼はこのころ眼病で失明寸前になっていたことも、不安をかきたてたかもしれません。

となると北条政子の意見が重要になってきます。

頼家の頃からずっと将軍を訓戒・教育し、政治にも携わってきて、さらに健康な人物……というと他に当てはまる人がいなかったのでしょう。

ここで有名な政子の大演説が行われます。

話の内容については、史料によって差異があり、正確なものはわかりません。

大まかな共通点としては

「故将軍・頼朝が朝敵を討伐し、皆に官位や土地を与えてくれたからこそ今があるのではないか。

院方に付きたい者はこの場で申し出るがいい!」

というところです。

実際の演説について声を張り上げたのは別の御家人ですが、ともかく鎌倉武士たちは政子に奮い立たされます。

朝廷と戦だ!

ただし、幕府軍は戦略でも少々揉めたようです。

箱根の関所で上皇軍を迎撃すべきだとか、鎌倉やそれぞれの本拠を留守にするのは良くないとか、一日前後を軍議で潰しています。

そこで大江広元や三善康信などの老臣が主張。

「迎撃などは考えず、天に運を任せて直ちに出撃せよ。こういうときは例え泰時一人であっても、急進する者がいれば後から皆集まってくるものだ」

”兵は神速を尊ぶ”というやつですね。

そして政子・義時・広元・康信が鎌倉に残り、他の主だった御家人たちはひたすら西へ向かいました。

幕府軍は総勢19万にまで膨れ上がったといいますから、広元たちの意見は正しかったことになりますね。

ただし19万というのは誇張された記録であり、実際にはもっと少なかったことが確実視されています。

戦闘の経過は、以下の記事をご覧いただくこととして、一団となった幕府軍は上皇軍にアッサリ勝利しました。

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義時vs後鳥羽上皇~鎌倉殿の13人クライマックス「承久の乱」とは?

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義時の急死後も幕府や北条を支え続け

戦後、広元らは上皇軍に加担した公家や武士などの処刑・処分などの仕事がありました。

北条政子は、その辺の処理にはあまり加担していません。

政子に何らかの縁がある公家の中には、助命に動いてくれるよう頼む人もいました。

しかし、この時代のことですので、処刑に間に合わなかった人もいれば、間に合って流罪で済んだ人もおり、こればかりはどうしようもないことでした。

伊賀光季の幼い子供たちを邸に招いて激励したり、乱後に新しく任じられた守護地頭の様子を調べさせて評判を確かめるなど、彼女が細かなところに気を遣っていたという話もあります。

既に60歳を過ぎていましたので、御家人だけでなくほとんどの人が子供や孫のような世代ですから。

幕府だけでなく、多くの人を慈愛の目で見るようになっていたのでしょうね。

政子晩年の最後の一仕事は、弟・北条義時の急死からはじまる一騒動でした。

あまりに突然なことですが、どうやら脚気衝心によるものらしく、なんだか『鎌倉殿の13人』の主役を彼女にしても良さそうなぐらいですよね。

義時の息子・泰時と時房は当時京都にいて、知らせを受けると急遽鎌倉へ。

政子は大江広元に相談した上で、二人に将軍・頼経の後見を命じ、ひとまず政治体制を安定させようとします。

しかし、義時が家督や領地相続のことを決めないまま亡くなってしまったため、少々面倒なことになりました。

義時の未亡人・伊賀の方が、自分の娘婿である藤原実雅を将軍に押し上げ、その後見として自分と実家の伊賀氏で実権を握ろうとしたのです。

さらに伊賀の方は、有力御家人の三浦義村を味方につけようと工作をはじめました。

これを聞きつけた政子、なんと侍女一人だけをつれて義村の屋敷に乗り込みます。

そして、トボけようとした義村に対し、ド迫力で詰め寄りました。

「最近伊賀氏の者がお前の屋敷に出入りしていると聞きますが、何か企んでいるのですか?

幕府を支えてきた義時の跡を継ぐべきなのは、息子の泰時ですよ。

泰時は承久の乱でも役割を果たし、器も申し分ないのだから、お前たちが出る幕はありません。

伊賀氏につくのか泰時につくのか、今はっきり答えなさい!」

大河ドラマでここまでやってくれるのでしょうか。

もしも放送されたら、小池栄子さんの迫力からして、主役を奪ってしまいそうなシーンとなりそうです。

一方、山本耕史さん演じる三浦義村は、これでおとなしくなりましたが、伊賀氏のほうはまだまだ収まりません。

政子は義村を含めて御家人たちを集め、再び鼓舞します。

「将軍がまだ幼いのに乗じて、謀反を企んでいる者がいると聞きます。

頼朝公の恩を忘れず、一致団結して謀反人を始末すべきです!」

そして、事が終わると、このときも広元に相談の上で、伊賀の方その他首謀者を流罪に処しました。

最後の最後まで苦労の絶えない政子の生涯。その中に希望もありました。

甥の北条泰時が、非常に公正な人物だったのです。

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泰時が父・義時の遺領配分を行う前、その割当を一覧表にして政子に見せたことがありました。

その中で、北条氏の当主であり執権でもある泰時本人の分が異様に少なくなっていたのです。

政子が不思議に思って尋ねると、泰時はこう答えたそうです。

「私は執権という重職についたのだから、広い領地はいりません。その分を弟たちにやって満足させたいのです」

もちろん泰時の弟たちも大喜びし、異論はまったくなかったとか。

一族の争いに散々、悩まされてきた政子にとっても、嬉しいことだったのではないでしょうか。

その後は大きな事件もなく、嘉禄元年(1225年)の5月に病みついた後、2ヶ月ほどして政子は息を引き取りました。

正確には嘉禄元年(1225年)7月11日のこと。

政治の上では戦友ともいえる大江広元の死を見送って、1ヶ月後のことでした。

要所要所では断固とした対応をしているため、政子にキツイ印象が生まれるのも至極当然ですが、実際はいかがでしょうか。

若い頃からの苦労や、家族全員に先立たれるという不幸を乗り越え、幕府を支えきった政子は「悪女」なんかではなく「良妻賢母」という言葉……いや、優しさと厳しさを兼ね備えた理想の為政者だったように思われます。

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長月 七紀・記

【参考】
渡辺保『北条政子 (人物叢書 新装版)』(→amazon
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
ほか

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