こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【八田知家】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
鎌倉時代の菓子
平安時代は果物が「水菓子」として扱われていました。
他に水飴や小麦粉などで作った「唐菓子」もあり、まんじゅうや羊羹は鎌倉時代に中国から伝わったと言われています。
ただし、この文治五年の時点であったかというと怪しいところ。
小豆は縄文時代から栽培されていたものの、砂糖はまだ国内生産しておらず、簡単には手に入らないものでした。
他に甘みをつける材料としては、甘葛(あまづら)、水飴、蜂蜜などを用いています。
飴は平安時代から広く売られるようになっていたので、この日に出されていてもおかしくはなさそうです。
となると、観性に贈られたのは水菓子・飴・唐菓子あたりでしょうか。
夏ですと『枕草子』に出ているような、削った氷に甘葛のシロップをかけたものも出されたかもしれませんね。
鎌倉には”雪ノ下”という地名があり、建久二年(1191年)に頼朝が作らせた氷室に由来するといわれています。
当然、文治五年時点では存在していませんが、頼朝が鎌倉に落ち着いて数年経っているので、どこかで雪を保存していた可能性も皆無ではないでしょう。
『吾妻鏡』は食に関する記述が少ないので想像の域を出ませんが、一般人が楽しむ上では良い要素かと思います。
また、この数日後には若宮八幡宮の別当・円暁が稚児や僧侶を連れ、八田知家邸を訪問。酒宴となったようで、稚児が延年の舞を披露したとか。
延年とは、寺院で大きな法会が行われた後に余興として演じられる、さまざまな芸能のことをいいます。
舞の他に音楽や猿楽など、様々なものが含まれ、この場合は法会の前に行っていますので、おそらくは「延年で行われるのと同じ舞」ということでしょう。
さらに、式典の前日には頼朝自らが知家邸を訪れ、観性と長時間に渡って雑談したようです。
地味なれど、当時の武士の風習が垣間見える話ですね。
奥州藤原氏の討伐では
文治五年(1189年)は東国の政治が大きく動いた年です。
同年7月17日、奥州藤原氏を討つための編制が発表。
東海道・北陸道・頼朝本隊の三手に分かれて奥州へ向かうことになり、八田知家は千葉常胤とともに東海道方面の軍を任されました。
発表から2日後の19日には奥州へ出発。
例によって知家の戦果と呼べるものは伝わっていないのですが、捕虜に関する逸話があります。
文治五年9月15日、奥州藤原氏の縁者ともいわれる樋爪俊衡が、三人の息子を連れて頼朝の陣へやってきました。
彼は既に還暦を超えるような歳で、真っ白な頭の弱った老人だったといいます。頼朝は哀れに思い、樋爪家の四人を知家に預けることにしました。
知家が自分の陣へ四人を連れて戻ると、俊衡は法華経を読む以外には何も言わなかったといいます。
それを見た知家は、日頃から仏教への信仰が厚いため喜んだとか。
そんな私的な事情を持ち込んでもいいのか?という気もしますが、奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は既に家臣に討たれ、その首も頼朝に届けられていたので、あまり尋問するべきこともなかったからでしょう。
-
史実の藤原泰衡は鎌倉に騙された愚将なのか?鎌倉殿の13人山本浩司
続きを見る
-
義経を二度も匿った藤原秀衡はどんな武士だった?鎌倉殿の13人田中泯
続きを見る
翌日、知家がこのことを頼朝に報告すると、
「ならば、法華経と十羅刹女に免じて本領を安堵しよう」
とのこと。
十羅刹女というのは、法華経の守護神のひとりです。法華経そのものだけでなく、このお経を伝える者も守護するといいます。
頼朝が「十羅刹女」とわざわざ言ったのも、ここが理由なのでしょう。
翌年建久元年(1190年)秋に頼朝が上洛するのですが、俊衡以外の樋爪家の者について、配流先が決められます。
全く咎めがないと他の者から反感を買いますし、かといって一度許すと決めた俊衡まで流罪にすると、信用を失ってしまいます。だからこのような処分を決めたのではないでしょうか。
少々時系列が前後しますが、建久元年(1190年)4月11日のことも少々触れておきましょう。
頼家 初めての小笠懸
建久元年(1190年)4月11日のこの日、頼朝の長男・頼家が初めて小笠懸を行いました。
小笠懸とは、その名の通り小さな的を射る笠懸のことです。
笠懸もまた字面の通り、遠くに置かれた丸い的を、騎馬武者が疾走しながら射るというもの。
「疾走中の馬上から射る」というところは流鏑馬と同じですが、笠懸のほうがより遠距離の的を射るため、実践的とされています。
流鏑馬は現代でも各地の行事として目にする機会がありますが、笠懸はあまりみられませんね。
-
鎌倉武士はどんな生活していた?衣食住・武芸・刀剣甲冑の事情マトメ
続きを見る
この日は頼家の記念すべき初挑戦ということで、御家人たちがそれぞれ武具や馬・馬具などを献上しました。
八田知家は行縢(むかばき)と、乗馬沓を用意したそうです。
行縢は、狩りや長期間の旅の際に用いる、両足を覆う布や毛皮のこと。
儀式などの場ではアクセサリーのような意味合いで用いられることもあったようで、織田信長が安土で御馬揃えを行った際、虎の皮の行縢を用いたことが記録されています。
知家がどのような素材のものを用意したのかまでは、吾妻鏡に記載がありませんので、想像するしかありませんが……。
頼家は見事に小笠懸を成功させ、御家人たちに称賛されたといいます。
建久元年9月になると、翌月の頼朝上洛に備えて、様々な手配をするよう御家人たちに命がくだりました。
知家は、道中の厩の手配を大須賀胤信とともに任されています。
胤信は千葉常胤の四男ですので、奥州合戦のとき同様、ここでも知家と千葉氏との接点がみられます。
そして同年10月3日、いよいよ京都へ出発する日が来ました。
しかし。
この大事な日に知家は大遅刻してしまいます。
遅刻をして大胆な切り返し
当然、頼朝は怒り心頭。
昼頃になってやっと八田知家が出てきても、機嫌が悪いまま。
並の人ならビビッて縮こまりそうなところでも、知家は物怖じしません。
まず「体調が悪かったので遅れてしまいました」と理由を説明した後、こう言葉を続けました。
「先頭と殿(しんがり)はどなたですか? 頼朝様はどの馬に乗られるのでしょう?」
遅れてきておいて何言ってんのか、肝が太いというか……。
しかし頼朝は機嫌が多少良くなっていたのか、普通に答えます。
「先頭は畠山重忠に任せた。殿はまだ決めていない。私は梶原景時の黒斑を使う」
これを聞いた知家は続けます。
「先頭はもっともだと思います。殿には千葉常胤殿がふさわしいでしょう。あの斑も良い馬ですが、鎧の色と合いませんね。私の用意した馬を是非お使いください」
そして体高四尺八寸(約144cm)の黒い馬を引いてきたといいます。
頼朝はこの馬を気に入り、早速乗ろうとしたようです。
そこで知家は「これは都入りのときにお使いください。道中はあの斑が良いでしょう」と勧めています。
つまり「都の人々へのアピールとして、鎧の色と合わせた黒い馬を使ってください」ということです。
この話からすると、知家は色彩センスに優れた人だったのかもしれません。
殿も千葉常胤と千葉胤頼、境常秀らに決まり、やっと出発……しかし、既に冬に入りかけている時期のため、この日はあまり進めず。
相模国懐島(現・茅ヶ崎市円蔵)に宿泊したとき、殿はようやく鎌倉を出たところだったといいます。
一行が京都に入ったのは、同年11月7日のことです。
京都滞在中の知家は、頼朝と御所へ参内したり、石清水八幡宮に参詣する際にお供を務めています。
12月11日には、後白河法皇の意向で頼朝が10名の御家人を左右の兵衛尉・衛門尉に推挙しており、その中に知家も含まれていました。
これは息子の知重に譲っており、世代交代の意図が垣間見えるように思われます。
といってもすぐに家督を継承させたわけではなく、知家はこの後も登場します。
建久二年(1191年)6月には、頼朝の姪である一条能保の姫の婚礼に際し、随行する者たちの衣装を用意する一人に選ばれ、同年8月には火事によって再建された将軍御所での宴に参加。
宴では、酒肴を献上した大庭景能が【保元の乱】での経験から戦時の心得について話し、皆感心したという逸話が有名です。
知家も保元の乱を経験していますので、何かしら話したでしょうね。
その後も征夷大将軍の辞令を持ってきた勅使を接待したり、鹿島神宮の式年遷宮が遅れているので早く行うように命じられたりしています。
※続きは【次のページへ】をclick!