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【北条時行】
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北畠顕家に尊氏追討を命じ
中先代の乱は、こうして足利尊氏の勝利で終わりました。
しかし、政治の混乱はまだまだ続きます。
というのも、この乱は建武の新政が始まった後、大雑把にいえば公家が重視されたため、相対的に武家が軽んじられていた時期です。
中先代の乱を成功させたことに対する恩賞も武士には期待できないわけで……尊氏は後醍醐天皇から離反することを決意。
帰京命令を無視して鎌倉にとどまり、新田氏の領地を勝手に没収するなどして、新たな武家政権の創設に向けて動き始めました。
これに対し、後醍醐天皇は奥州にいた鎮守府大将軍・北畠顕家に尊氏追討を命じます。
北畠顕家は『神皇正統記』を書いた北畠親房の長男であり、公家です。
数え14歳で参議・公卿となり、おおよそ一年後には父と共に義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城へ下っていました。
そのため、彼の配下は奥州の武士たちが主体であり、中には結城氏や伊達氏など、戦国時代でも登場する家も含まれています。
その他、顕家について簡単にまとめると、
・東国の事情を自分の目で見ていて熟知
・後醍醐天皇への忠義に厚い
・さらには兵の指揮まで上手い
という、チートスペックの才人です。
今日ではあまり知られていない人物ですが、この時代が大まかな歴史区分では”武士の時代”とされているため、公家出身の顕家はスポットが当たりにくかったのかもしれません。
顕家と連携して
北条時行は建武四年=延元二年(1337年)7月、後醍醐天皇に許されて南朝方の一員となった後、この顕家と連携して動くようになります。
その際、時行は伊豆で挙兵していたので、おそらく中先代の乱以降はそのあたりに潜伏していたのでしょう。
伊豆は北条氏の出身地でもありますから、地元民からの協力が取り付けやすかったのかもしれません。
かつて自分の父や幕府を滅ぼした後醍醐天皇側につく……というのも少々不思議ですが、『太平記』では時行が以下のように主張していたということになっています。
「父・高時が滅ぼされたのは高時に非があったためであり、後醍醐天皇に恨みはない」
「尊氏は北条氏の厚恩を受けて今があるのに、敵対するのはそれに背く行為である」
「我が一族は尊氏と直義に恨みを晴らしたい」
もちろん『太平記』は物語であって史実をそのまま書いているとはいえませんが、当たらずとも遠からずといったところなのかもしれません。
同年12月、時行は顕家と共に鎌倉を奪還。
延元三年=暦応元年(1338年)1月も、引き続き上洛中だった顕家の配下として、美濃・青野原で北朝方の土岐頼遠軍と戦いました。
この時期、足利尊氏は北朝方についていたのですが、南朝方の新田義貞が北陸で勢力を回復しつつあり、顕家・時行軍への対応ができなかったのです。
この時点での大まかな構図としては、
【南朝】北条時行・北畠顕家・新田義貞・後醍醐天皇
vs
【北朝】足利尊氏・土岐頼遠・光明天皇
となります。
この戦は時行ら南朝方の勝利となりましたが、翌月【般若坂の戦い】では勝者と敗者が逆になり、形勢も逆転。
顕家は一旦引いて河内で大勢を整えたものの、同年5月に行われた【石津の戦い】で討死してしまいました。
このとき、南朝方の多くの武将も顕家と命運をともにしています。
北条時行は、生き残りました。しかし……。
10年以上歴史の表舞台から消え
再び身を潜めた北条時行は、その後、10年以上歴史の表舞台に登場しませんでした。
本当に執念がすごいですね。
次に彼の名が出てくるのは、正平七年(1352年)に【観応の擾乱】が起きてからです。
足利氏による内部分裂が起き、時行はこの機に乗じて鎌倉奪還を目指すこととしました。
新田義宗・義興といった新田義貞の息子たちと行動を共にして、鎌倉にいた尊氏の四男・足利基氏を破り、三度目の鎌倉入りを果たすのです。
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しかし、このときも程なくして尊氏に奪い返されてしまいます。
そこで時行は、正平七年(1352年)閏2月23日に義興と共に相模へ行き、三浦氏に援軍を頼みます。
結果、義興と三浦軍vs尊氏軍の戦闘が起きました。
そして三浦軍が勝利を収めるのですが、時行がこの戦に参加していたかどうか、はっきりしていません。
義興といつまで共にいたのか?という点も不明で、翌正平八年/文和二年(1353年)、時行は鎌倉近辺で捕らえられたと言われています。
一年以上潜伏していたのか、それとも再起を狙って動き始めたところを見つかってしまったのか……。
同年5月20日、ついに時行は鎌倉近郊の龍口(たつのくち、藤沢市)で処刑されました。
ここは当時処刑場だった場所で、日蓮が処刑されかけた”龍ノ口法難”でも有名です。
文永の役の翌年にやってきた元の使者・杜世忠が斬られた場所でもあり、彼らの塚が近隣の常立寺に建立されています。
鎌倉幕府や関連人物にとっては、特に縁の深い場所といえるでしょう。
★
時行に関する塚や墓所などは、残念ながら現在まで伝わっていません。
室町幕府の目を気にしてのことなのか。
時行の場合、幼い頃に世話になった諏訪神党の人々や北畠顕家など、苦楽をともにしたといえる人が先に死んでしまっていたため、弔う人がいなかったのかもしれません。
得宗家に仕えていたとされる人々も、時行と一緒に処刑されてしまっています。
一方、ここまで逃亡と潜伏を繰り返した人ですので、やはりというか生存説が存在します。
それによると時行の息子が後北条氏の祖先だ……というところまで繋がるのですが、近年の研究では「後北条氏初代・北条早雲(伊勢新九郎)は備中の伊勢氏出身である」とほぼ確定したため、時行との関連は無いでしょう。
時行が処刑されたとされる場所は現在、龍口寺(龍口刑場跡)となっています。
彼について思いを馳せたい方は、こちらを訪れてみるのがよいかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
北条時行/国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで(→amazon)
ほか