豊川稲荷

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寺社・宗教

豊川稲荷は神社ではなくお寺だと?今川義元や大岡越前守に信奉され

初詣の参拝客が100万人を越える三河地方(愛知県東部の豊川市)の豊川稲荷

京都の伏見稲荷と並んで「三大稲荷」と呼ばれています。

いなり寿司発祥の地としても知られ、何百体というキツネの石像が並ぶ「霊狐塚」は、インスタ映えとしても人気。

画像をご覧の通り「これでもか!」と並ぶ狐の姿は圧巻ですが、今さらながら一つ断っておきますと、ここ、正式名称は曹洞宗の寺院「妙厳寺」となります。

神社ではなく寺――。

他の著名な稲荷は神社であるのに、なぜ豊川稲荷だけ仏教寺院なのか?

その歴史と由来を振り返ってみましょう。

 


嘉吉元年(1441年)に東海義易が開創

比叡山延暦寺などの「◯◯山」に該当する山号――豊川稲荷は「円福山」なのですが、こちらもほとんど知られていませんよね。

その他の別称としては「豊川閣」があり、江戸時代に公家の有栖川宮家が扁額(へんがく)を寄進したため、その名がつけられました。

つまりここは

・豊川稲荷
・妙厳寺
・円福山
・豊川閣

というように4つの名前をもつお寺なのです。

本稿では、一般的な名称である豊川稲荷で説明を進めますね。

本殿(編集部撮影)

豊川稲荷の開山は、室町時代の嘉吉元年(1441年)でした。

遠江の普済寺(静岡県浜松市)を開いた華蔵義曇(けぞう ぎどん)の弟子で、三河出身の東海義易(とうかい ぎえき)が開創。

遠江は普済寺、三河は豊川稲荷が信仰の拠点となりました。

嘉吉元年というと、歴史ファンにはよく知られた【嘉吉の乱】が起こった年です。

播磨(兵庫県)守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)を京都の自邸の宴会に招き暗殺した大事件。

播磨国に逃げ帰った赤松は幕府軍に攻められて滅亡しましたが、室町幕府の権威は衰え、その後、応仁の乱(1467~77年)へとつながっていきます。

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こうした地方分権が一気に広まろうとした時代に、九州出身の華蔵義曇も引馬城(のちの浜松城)の領主から誘われ、東海地方で布教の道を選んだとおもわれます。

ではなぜ、曹洞宗という座禅を中心とするお寺が稲荷になったのでしょうか。

 


なぜ稲荷となったのか?

豊川稲荷の本尊は、千手観音菩薩です。

鎌倉時代に九州で活躍した曹洞宗の高僧・寒巌義尹(かんがんぎいん・1217-1300年)が伝来したもので、キツネとは結びつきません。

稲荷となったのは、寒巌が感得(真理を悟る)して自ら彫刻した「豊川枳尼真天(とよかわだきにしんてん)」です。

寺伝によると、寒巌が1264年(文永元年)に修行のため宋へ渡り、1267年に帰国した際に海上で、白い狐にまたがった荼枳尼天(豊川稲荷では枳尼真天)を見て感動し、帰国後、自ら刻んで終生守護神としてまつった、とされています。(豊川閣妙厳寺略縁起より)

この白い狐にまたがった稲穂をかついだ像が「豊川稲荷」と通称され、江戸時代の18世紀後半以降から、寺全体が「豊川稲荷」として著名になったのです。

安永4年(1775年)成立の『三河刪補松』に

「当寺ノ境内ニ平八ト云名狐アリ、近年祠ヲ建、稲荷明神ト崇ム」

とあり、寺と稲荷を結びつけられたことがハッキリわかる資料です。

鎌倉時代の九州の高僧と室町時代に開かれた東海地方の寺では、距離も時間も大きく離れています。

ここは宗教上の大切な言い伝えですから、無粋なツッコミは控えたいところですが、少し歴史的に考えてみましょう。

明治時代になって、廃仏毀釈の嵐が巻き起こったときに、妙厳寺も厳しい立場に置かれました。

「寺なのに稲荷(神社)とはどういうことか!」

政府からそう責められたとき、神道神社系のキツネを標榜しているのではなく、仏教の荼枳尼天がまたがるキツネのことであると主張して難を逃れました。

決め手となったのは、寒巌というところです。

なぜ、鎌倉時代の寒巌を持ち出したかというと、寒巌は【承久の乱】で知られる後鳥羽上皇の息子なのです。

武士と戦った天皇や皇族が明治維新で名誉回復されますが、その一例でもありますね。

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また、同寺には由緒不明な鎌倉時代の仏像があるのですが。

室町に設立した寺がなぜ鎌倉時代の仏像を持っているのか?というと、明治時代に経営の苦しくなった古刹(こさつ)が寒厳時代にマッチする仏像を放出したということも、確率としては、捨てきれないでしょう。

結論は出さずに、ここらへんで察しておくのが無難ですかね。

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