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「うむ。謙信に圧勝じゃの」(絵・富永商太)

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新発見!武田信玄の直筆書状が見つかる!【解説】弟の信繁とは

更新日:

 

武田信玄の書状の新発見です!

読売新聞がスクープしております。

長野県の旧家に伝わっていたものを、山梨県の武田氏研究の第一人者の平川優さんが鑑定しました。

武田信玄書状1

信玄の直筆書状(平山氏提供、読売新聞紙面から)

そもそも信玄の直筆書状は数点しか見つかっておらず、今回の弟信繁(左馬助)宛てのものは初めてとのこと。

気になる内容は、報道をもとにしますと、天文二十三年(1554年)に、信州へ進撃していた信玄(当時は武田晴信)が、信州・小諸城の攻略に向けて、弟の信繁に対して、親族や家来に戦闘準備をさせるように指示するものとのことです。

ネットにはありませんが、新聞では書状の現代語訳や識者(丸島和洋・国文学研究資料館特任助教)のコメントも載っていました。

丸島和洋特任助教のコメント

「武田家は内紛が多く、信玄が頼れる親族は少なかった。書状は信玄が信繁に信頼を寄せ、軍事上重要な役割を任せていたことを示す一級史料だ」

読売新聞での現代語訳

「様子によっては明日、小諸に向けて軍勢を動かそうと思っております。おのおのは兵隊を散らさないように支度をしていただきたく、そのように命令してください。また、武具などの用意も固く親類や家来衆に指示しておいてください。八月十日晴信(花押) 左馬助殿」

なお、信繁は1561年の川中島の戦いで戦死しています。

信玄が手紙を送った弟とは

この信繁について、まとめてみましょう。

信玄は1541年、駿河にいっていた父の信虎を追放しているのですが、そもそも追放劇につながった理由のひとつにこの「弟」の存在があります。

信虎は嫡男の信玄(当時は晴信)ではなく、信繁を愛してやまなかったと、「甲陽軍鑑」にあります。長男ではなく次男に家をゆずるという道理を外れた父の行動が祖先の怒りをかったと解釈されてきたのです。

ただ、最近の研究では、この追放劇は、甲斐の大名として力を付けすぎた信虎が専制君主的になっていったため、「調子にのりすぎ」をおそれた臣下たちが、わかい(当時21歳)でコントロールしやすい信玄をまつりあげたというのが真相とされています。

「弟を擁立したかった」父を排斥したはずなのに、その後の兄弟はとても仲がよかったのです。

これも江戸時代にできた定説(弟擁立説)ではなかったと考えればつじつまがあいます。

信玄政権下で、信繁は事実上のNO2(御親類衆筆頭)として軍政両面で活躍しました。

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信繁の遺言

信繁は家督を生前(永禄元年)に嫡子の信豊に譲ったさいに99か条の「家訓」を与えています。

「屋形様に対し奉り、尽未来、逆意あるべからざる事」で始まる家訓は、

  • 「父母に対し不孝をしてはいけない」(6条)
  • 「主家の命令に決して背いてはいけない」(17条)
  • 「屋形様からどんな仕打ちを受けても不満を述べてはならない」(32条)
  • 「出陣にあたっては一日たりとも大将に遅れてはならな」(40条)
  • 「味方が敗れた時にはひとしお力を入れて戦わなくてはならない」(73条)

(訳文は堀内亨「武田信繁と武田信玄」『歴史読本』2011年12月号)

など、「専制君主」への絶対服従をとくものです。専制反対!ではじまったクーデターから一代で専制大名が確立してしまったのですから、おもしろいものです。とくに6条なんて「お前が言うな」的で味わいぶかいですね笑

この家訓の3年後に、信繁は戦場の露と消えるのです。

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信玄の手紙と言えば……アッー

ちなみに信玄の手紙といえば有名なのが、あの「アッーー」なラブレター(東大史料編纂所蔵)。
拙著「戦国時代100の大ウソ」の原稿を再掲します。

 武田信玄というと、男の中の男というイメージを抱くだろう。が、実はこの御屋形様、大のオトコ好きだった。
ある美少年に対して、こんな手紙を送っている。
『―弥七郎くん以外を愛したことは、今までもこれからも神に誓ってありません。
お前が嫉妬していると私はオロオロしてしまうんだよ~』

鬼神のごとく恐れられていた姿からは想像できないが、この時代は信玄だけが変わった恋愛観を持っていたのではない。
ライバルの謙信にいたっては、「女は一切ダメ」と大名のくせに結婚も子作りもせずに、魔法使い(出家)になってしまった。もちろん謙信もオトコとはラブラブであった。
むしろ、名だたる戦国大名で美少年に関心がなかったのは、大の女好きの豊臣秀吉ぐらいのもんだろう。
ちなみに弥七郎とは、武田の名将として有名な高坂昌信(春日虎綱)のことだ。
この人は、信玄の死後、次の当主・勝頼に対して
「人を使うときは、合うところで使って、ちょっと具合がよくなくてもいちいちとがめるな」
と忠告している。
う―む。同性愛者の視点で語られると、意味深な言葉ですなぁ。
(52ページ)

川和二十六・記

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