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イラスト・富永商太

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信長父の野望!「織田信秀が三河を支配したった」の書状を見てきた

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先日、「若い頃の織田信長の文書の原本見つかる」というニュースで展示されている原本を名古屋市博物館で見てきて投稿させてもらった愛知県在住の千種メイエキです。(*「新発見の織田信長の文書原本はバカ息子信雄のお手紙とセットだった」

きょうは今週オープンしたイオンモール名古屋茶屋という巨大ショッピングセンターに行くつもりでしたが、武将ジャパンさんから朝、「これ調べてくれないですか」とメールがきました。

信長父野望

織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたことが、村岡幹生・中京大教授(日本中世史)の研究で分かった。今春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。(信長の父「三河を支配」中京大教授が新説」読売新聞2014年6月29日より引用)

たしかにこれはすごい。正直、前の信長原本の話は判物の内容自体はすでに知られているもので(私は知りませんでしたけど)、歴史が変わるというような類いの史料ではありませんでした。
しかし、今回のは愛知の人間にとってはすごく有名なお話が根底から覆されるかもしれない発見ということで面白そうだなと思って、急遽、図書館で新聞と「愛知県史資料編14」を見てきました。

記事にある「菩提心院日覚書状」は補178という史料です。巻頭にカラー写真、活字が本文にありました。
現代語訳は添えられていませんでしたし、3頁にわたるかなり長い文書です。

新聞にはネットでのっていない写真や訳などもありましたので、それをあわせて該当の部分らしいところをおおざっぱに訳してみます。私は単なる戦国好きでちゃんと読めているかは分かりません、違っていたらすみません。

「三河は駿河衆(今川方)が敗軍し弾正忠(織田信秀)が三河一国を管領(支配)した。信秀の威勢は前代未聞」
(以上は新聞にあった訳です)

その次の行はさっぱり意味が分かりません。
雰囲気的には、この書状を書いた日覚というお坊さんはこの時、加賀にいて、弟子たちから東海地方で起きていた情報を京都で集約した、みたいな感じではないかと思いました。

その次の行はまた信秀の三河侵攻のことが書いてありますが、この情報筋が鵜殿氏ということになっています。全国の人には全く無名だと思いますが、現在の蒲郡市の重要な武士です。岡崎が西三河に属するのに対して、蒲郡市は東三河になります。

内容は、それまで三河の武士たちは今川と織田の間の緩衝地帯にあって両方からのらりくらりとうまく渡り合っていたけれども、今回の今川の敗退で、信秀は我々(三河武士)のことを一切遠慮がなくなり、我々も攻撃されている。あまりに心もとないのでお坊さんを派遣してください。という感じでしょうか。

その次の行が記事にのっている部分で
岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子。弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った。それで京都でこの情報を入手した
みたいなことが書かれているのだと思います。

記事には書かれていませんでしたが、すでに信秀は西三河の西端には進出していることはわかっています。安祥城(安城市)というところです。この城の城主が、記事にある家康と人質交換された信長のお兄さんです。

尾張と三河というのは、国境線が境川という地味な川です。これはそれほどの大河ではありませんので、尾張と安城などは地形的にはわりと一体です。

ただ、岡崎へ侵攻となると話は違います。岡崎にいくには矢作川という大河をこえないといけないからです。今でも文化圏的に、三河は矢作川から東といってもOK、トヨタ自動車のある豊田とかも三河なんですがだれも三河と思っていないと思います笑(名古屋の影響が強いからかもしれませんが)。

岡崎は三河の中心ですが西三河です。岡崎の東側には山脈といってもいい(いいすぎ?)の山並みがあり、東三河と西三河は交通的には分断されていて、まったく別の文化・経済圏といってもいいです(いいすぎ?)。

では東西はどう移動するかというと海側の蒲郡あたりが交通の要所となるのです。それが文書ででてくる鵜殿さんです。
当然、岡崎をおさえた信秀が次に狙うのはここになります。
そう言う点で鵜殿さんの緊迫感はハンパなかったのでしょう。

この頃の東三河は今川領ではありません。むしろ、今川は侵略者だったので、東三河の武士たちが織田をホワイトナイトとして受け入れて、この文書にある通り、三河一国を管領したという状態にあったのかもしれません。

あと面白いのがやっぱり家康(竹千代)の誘拐の話ですよね。
竹千代の誘拐は図書館で調べた辞典によれば1547年8月です。
そしてこの文書の日付は同じ年の9月22日。

時系列で考えれば合うので、岡崎城落城のときに降参した家康のお父さんが息子を織田に直接差し出したというのはありえそうです。

でも、この文書を読む限り、直接的に家康が織田に渡されたという記述があるわけではありませんし資料集なのでそういう論文が載っているわけではありません。きっと、この先生が近く本にでもするのでしょうね。

家康誘拐はこれまでおそらく誰も疑義を挟んだことのなかった話なので、これから色々と議論が盛り上がるのでしょうね。

来週はイオンモール名古屋茶屋のルポを送らせていただきます(冗談です)。




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千種メイエキより(また暇なら行ってきます)

 

 




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