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ナポレオンwith愛馬マレンゴ/wikipediaより引用

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冬将軍で倒れたナポレオン軍の兵士の遺体が大量出土!発掘作業も寒そう

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ナポレオンの冬将軍と言えば、厳寒のロシアで大勢の兵士が還らぬ人となり、ナポレオンの没落を早めた悲劇として知られています。

そうして倒れた兵士の遺体3000体以上を収容した墓地がバルト三国のリトアニアで発掘され、悲劇を改めて再現しています。

英国のインディペンデント紙が報じています(2015年7月28日付け)。

サイトより写真を引用させて頂きます。地元では長年の間「誰を埋葬していたのだろう?」と謎になっていたそうですって。

ここで、ナポレオンの冬将軍についてのウィキペディア日本語版の説明書きを引用させて頂きます。

10月24日のマロヤロスラヴェツの戦いではフランス軍が辛勝したが、クトゥーゾフはフランス軍をスモレンスク街道経由の退却へと追い詰めることには成功した。スモレンスク街道はフランス軍がモスクワ遠征の往路に使用した道で、すでに両軍の戦いで焦土化しており、食糧補給は望めない状態であった。兵站は滞り、農村でいくらでも手に入る藁を飼料とするロシア側の馬に対し、補給が必要な燕麦を飼料とするフランス馬の維持は難しくなり、馬のほとんどが餓死するか、食料として飢えた兵士に殺された。馬がなくなったことでフランス騎兵は徒歩で退却することを余儀なくされた。 さらに馬の激減は大砲と荷馬車の廃棄につながり、それは砲兵隊・支援部隊の喪失を意味した。ロシアに多数の車両を置き去りにしたことは、ヨーロッパ大陸でのフランス軍の兵站にも後々大きな悪影響を与えた。

1812年11月始めには飢えと凍傷、行軍による疲労で兵士が死に始めた。冬が深まるにつれ飢餓と疾病、厳寒で死者・落伍者が相次ぎ、脱走兵が急増したが、殆どの脱走兵は捕虜になるか、ロシアの民兵に殺された。クトゥーゾフは南の脇道を塞いでフランス軍が別の経路を取れないようにし、コサック騎馬兵を含むロシア軽騎兵隊は、フランス部隊の弱い部分を絶えず攻撃した。さらにヴャジマ、クラスノイ、ポロツクでもロシア軍がフランス軍部隊を襲撃し、大きな損害を出した。11月3日には兵力は5万に減り、11月8日にスモレンスクに到着した時には3.5万に減った。11月6日、ナポレオンはクロード・フランソワーズ・マレー(英語版)将軍が10月23日にフランスでクーデターを起こしたことを知った。11月28日、ドニエプル川の支流ベレジナ川でポンツーン橋を仮設。この時クトゥーゾフは交戦の時機と判断し、大陸軍を攻撃。橋を渡り終えていなかったフランス軍部隊はロシア軍部隊に襲撃され多くの犠牲者が出た。この凄惨な戦いを「ベレジナ渡河作戦」と言う。この時兵力は3万に低下した。

12月5日、ナポレオンはミュラ元帥に後事を託して橇で帰国した。ミュラは後にナポリ王国を守るためにナポレオンの義理の息子だったウジェーヌ・ド・ボアルネに部隊を任せて脱走した。
その後は大部隊の残存兵は激減し、1812年12月14日、ロシア領内から駆逐された。22000名の将兵が生き延びたに過ぎない。最終的に大陸軍は60万から5千まで減った。戦闘によるロシアの死傷者はフランス軍と大差ないが、戦線の通過で荒廃した地域の住民の死傷者は軍隊を上まわっている。全体としておよそ数百万人が死亡したと見られ、仏露で等分すると約100万人が殺された。フランス軍は30万人、ポーランド軍は7万人、イタリア軍は5万人、ドイツ軍は8万人、ロシア軍は恐らく45万人を失った。人命同様にフランスは馬20万頭と大砲1000門も失った。

ロシア語で「乞食」や「ペテン師」を意味するシャロムイジニク (ロシア語: шаромыжник) は、フランス語の cher ami (「親愛なる友」)に語源があり、尋常でない冬の寒さに兵士が地元住民に物乞いをしたことから来ている。

引用終わり。発掘に携わったセントラル・フロリダ大学の考古学者によると、寒さよりも餓えで死ぬ兵士が多かったそうですから、ウィキペディアの日本語版を裏書きしていますね。
同紙はフォーブス誌の報道を引用していますが、それによると、リトアニアの首都のヴィリニュスで発見されたのは2002年。当時はBBCの注目も集めていました。40以上の連隊の兵士の遺体である事が、軍服のボタンなどから判明しました。ナポレオン軍50万人がロシアに侵攻したのは1812年6月。しかし、半年後にヴィリニュスに撤退した時には4万人にまで減っていました。低体温症や餓死、チフスなどが死因となり、この地だけで約2万人が命を落としたとの事です。

この戦役からワーテルローでトドメを刺されるまで僅か3年なのですよね。そりゃあ、これだけ戦死したら当たり前か。ともあれ、調査後は慰霊祭の一つでもやって、御霊を弔って欲しいものです。

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