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杉原千畝だけでなかったアジア版「シンドラー」外交官、死後18年目で祖国・台湾で名誉回復

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ナチスのユダヤ人迫害には、オスカー・シンドラーや杉原千畝など、内外で多くの人達が異論を唱え、保護に当たろうとしました。先日死去なさったサー・ニコラス・ウィントン氏などもそうですね。(参考記事「英国のシンドラー、杉原千畝。669人のユダヤ人の子供を助けた株の元仲買人が死去」)

そうした知られざるヒーローの1人とも言うべき外交官が、祖国で功績を表彰されました。イスラエルの新聞、エルサレム・ポストも感謝を込めて報じています(2015年9月13日付け)。

杉原千畝に先立つこと2年、立ち上がった中華民国の外交官

その人の名前は何鳳山(かほうざん)。中華民国の外交官でした。トルコを振り出しに、2つ目の仕事場となったのが駐オーストリア領事館の第一書記。1937年の事でした。その翌年、ナチスによるオーストリア併合が降りかかったのです。1938年3月13日の事でした。

第一次世界大戦で領土を大幅に割譲され、経済的にも瀕死の状態だったオーストリア国内では、ナチスへの併合を歓迎する声が多数でした。ただ1つの集団を除いて。そう、ユダヤ系オーストリア人20万人には、迫害が待っていたのです。

外国に逃げ場を求め、各国の大使館などに群衆が殺到しました。その多くが追い返されました。当時、ユダヤ人難民の受け入れを拒んだのは、カナダやオーストラリア、ニュージーランドなど実に31ヶ国に及びました。唯一の門戸を開いたのがドミニカ共和国で、10万人を受け入れると表明していました。ここで何は、アクロバティックな手段に出ます。上海を経由地にした同国への通過ビザを発給し始めたのです。

当時の中華民国オーストリア領事館は、ベルリンの大使館の命令を仰ぐという指揮系統でした。ナチスを刺激したくないベルリン大使館が大反対したのは言うまでもありません。しかし、これを何は無視し、ビザを次々とユダヤ人に渡していきました。ウィキペディア英語版によると、その枚数は最初の半年間だけで1200枚、こうした発給は1940年5月に帰国を命じられるまで続いたとされています(今日確認出来るのは、1938年10月27日付けのビザで1908枚目でした)。杉原千畝の先輩的な存在と言えましょう。いやむしろ、杉原の方が「日本の何鳳山」とでも言うべきですね。

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戦後も外交官として活躍も不遇だった台湾での晩年

もっとも、杉原と違ったのは、戦後も外交官として活躍できた事でしょう。内戦に敗れ、台湾に逃れた国民党政府に同行した何は、エジプトやメキシコ、ボリビアやコロンビアの大使を歴任します。1973年に引退し、サンフランシスコに移住。この地で1990年に回想録「外交生涯四十年」を出します(英語版は2010年に出版)。

ここまでは何とか順風と言える人生でしたが、最晩年に苦難が襲いかかります。台湾政府が大使時代に不適切な支出があったとして、年金の支払いを拒んだのです。今日では、これは政治的なでっち上げだっただろうとされています。一つには、何が80歳の誕生日に生まれ故郷の中国本土の長沙を訪れるなど、当時の台湾政府当局にとって好ましくない行動を取った事があるのではないかとされています。

1997年、サンフランシスコで没。享年96でした。ほぼ1世紀近く生きた格好です。波乱の生涯と言えましょう。

ポスト紙では、忘れ形見の何曼德氏と、娘の何曼礼氏の写真を掲載しています。死後、「諸国民の中の正義の人」として功績を称え、2000年にイスラエル政府から表彰された時のものです。

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戦後70年でようやく祖国も功績認める

今回、これに続く形で、この9月10日に台湾政府からも表彰されたというのが話の流れ。第二次世界大戦終結70周年の節目として、国民党政権の外交官としてのビザ発給を称える式典を行う事で、共産党政権の鼻を明かす意味合いもあったようです。当人やご遺族にしたら、死後18年目の名誉回復にはなった格好。馬英九総統は、「表彰が余りにも遅くなりすぎました」と、曼德氏と曼礼氏に謝罪しています。

ポスト紙では、「善行は生前ほとんど知られる事が無かった。訃報によって、彼がゲシュタポに立ち向かい、ユダヤ人の友人を助けたという事実が我々の社会に広まり、ウィーン時代の過去を更に詳しく調べていく流れとなっていったのだ」と記しています。

「諸国民の中の正義の人」として何を顕彰したヤド・バシェム氏は「ナチスとの関係を強化したがっていたベルリンの大使館の上司の命令を拒み、膨大な数のビザを発行したのが何氏だった」と絶賛しています。

式典で馬総統は他の50ヶ国の大使館でビザ発給を拒まれながら、何によって命を救われたエリック・ゴールドスタウブ一家の話を引き合いに出しました。この御家族は20人いたそうです。自分の車の中でこっそりと書類を作成し、御家族に手渡したのが命を救う結果となりました。1940年にウィーンを離れる事が出来たからです。

式典に同席したイスラエルの外交代表部のアッシャー・ヤルデン氏は「大変重要な式典に同席できました。馬総統が何氏の名誉回復をなさった事を大変意義深く思います。この国にとっても、世界にとっても、ホロコーストと戦ったという事実を示して頂くのは重要な意味がありますから」と感慨深げ。

エルサレムの「諸国民の中の正義の人」の関係者も同意見。今日、台湾には約1000人のユダヤ人が住んでいますが、こうした縁が出来たのも何のお陰だとしています。

「生前、こう言っていたそうです。『いいですか? 私は外交官なんです。だから、やるべき仕事をやるまでです。それで困った目に遭う連中(ナチス)が出たら申し訳無いが、仕事なんですから、しょうが無いじゃあないですか』と。そう言いながら、ビザ発給が人道行為だと確信していたのです。ユダヤ人を、同じ人間だと見ていましたし、助けるのは人としての義務だと決意し、行動に移したのです」(関係者の1人、イレーナ・スタインフィールド氏)。

ちなみに、このビザによってオーストリアを脱出した人の中には、ダニエル・ウェイスという方がおられました。2010年から11年にかけてイスラエルの科学技術省でチーフ・サイエンティストを務められ、現在はテクニオンという会社のロボット部門の責任者を務めておられます。この方も、何によって発行されたビザで、ヒトラーの魔手から逃れていた1人。エルサレム・ポストでは、「もし何鳳山がいなかったら、決して生きていられなかったろう」と書いています。

ウェイス氏の一家は上海に逃れた後、桂林に移住。そこで第二次世界大戦が終了するのを辛抱強く待ち、1949年に新生イスラエルに移住し、今に至ります。こうした人達から「中国のシンドラー」との綽名が付けられた何は、天国で今頃、どう感じているのでしょうか。

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