日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

歴史・戦国NEWS WWⅡ

真珠湾攻撃“陰謀説”に迫る! その日、東京で起きた密かなスパイ戦とは!?

投稿日:

 

20世紀の歴史に於いて、真珠湾奇襲は屈指のエピソードでしょう。第二次世界大戦の分岐点になっただけでなく、孤立主義志向のアメリカが、世界の警察官を志向する結果をも生み出したのですから。
同時に、大きな謎が残ったままでもあります。参戦を望んでいた当時のルーズベルト政権は、奇襲を知りながらハワイの陸海軍に、わざと警報を怠ったのではないのかとの疑惑がそれです。いわゆる「ルーズベルト陰謀説」。ウィキペディア日本語版にも真珠湾攻撃の記述で項目があるぐらい。やや長くなりますが、一部を引用させて頂きます。

陰謀論詳細は「真珠湾攻撃陰謀説」を参照
須藤真志によると真珠湾攻撃及び日米開戦にまつわる陰謀論について、整理すれば次の3つのバージョンとなるという[190]

  1. ルーズベルト政権が日本の真珠湾攻撃を予測していながら、それをハワイの司令官たちに伝えなかった
  2. ルーズベルトが個人的に日本の真珠湾攻撃を事前に知っており、太平洋艦隊を囮にした
  3. ルーズベルトが日本からの開戦を仕向けるために挑発を行った

 

「アメリカは事前に察知していた」との主張「アメリカは真珠湾攻撃を事前に察知していた」という噂は既に戦時中からあった。主張によれば、アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知したのだが、暗号を解読している事実を日本に知らせないためには、事前に真珠湾に警戒態勢をとらせることはできなかったのだという。
さらには、そのまま攻撃させたほうが政治的に有利であるため、あえて見過ごしたのだとする主張もある。こうした陰謀論でよく語られる「根拠」として、当時日本の外交暗号はほぼ解読されていたこと、民主党のルーズベルトが対独開戦を指向していたにもかかわらず共和党を中心とした反戦世論により妨げられていたが、真珠湾攻撃を受けたことにより実現したことなどがある。
否定説
現時点で傍受を証明する資料は存在しない。当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することであり、アメリカの対日戦争計画も日本軍がフィリピンに攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは想定していなかった(オレンジ計画)。日本海軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように装っていた。また、艦隊決戦が主流であった時代であって、航空機による海戦はあまり考慮されていなかった。真珠湾内での魚雷攻撃は、浅瀬のため技術上きわめて困難であるとも考えられていた。また日本の用いていた暗号のうち海軍暗号は1941年12月の段階では解読されていなかった。

肯定説

  • 当時のアメリカ国務長官ハルの回顧には、1941年1月27日に東京のグルー大使から、「日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている」という情報を受けたため、陸、海両省に報告したという記述がある[194]

・海軍作戦部次長ロイヤル・インガソル少将の決定により、ハワイのキンメル提督は、解読電報の報告先から除外されていた。
・1979年のカーター政権下で公開された傍受電報に関する文章は全体のごく一部に過ぎず、国家安全保障局により、出所がすべて伏せられている。
・国家安全保障局が情報開示を拒んできたことについて、その職員は「それは公共の利益のためである。この問題は公に討論すべきことではない。政府の立場を弁明すること自体が、政府が守らねばならない秘密の一部となっている場合、政府の立場を明らかにすることはできない」と語った。

引用終わり。お読みになられれば分かるように、日本側の暗号を解読できていたかどうかが、陰謀論の主なベースになっている事が分かります。

大学で歴史を専攻したワタクシメは、在学当時から真珠湾奇襲について関心を持っておりました。勤め先の新聞社を早期退職した際も、これを追っかけようと思ったぐらい。結局、生活の事情もあって別の道に進んでおりますが、安倍総理が真珠湾を訪問すると発表した事もあるので、改めて調べた限りで浮か上がった、ウィキペディアとは別の指摘をしたい。正直、生煮えなところがあって申し訳ないのですが(苦笑)。

 

なぜ、ヒューミントから語られないのか

落ちこぼれのダメ記者ながら、約四半世紀に渡って新聞社勤めをした身として、真珠湾の陰謀論を巡る論争について違和感を持たざるを得ません。

何故ヒューミント(人による諜報活動)の資料が陰謀論の材料に挙げられないのか、と。

報道機関に身を置かれた人なら誰でもお判りでしょうが、情報と言うのは必ずクロスチェックしなければなりません。つまり、一つの情報源に頼ってはいけないのです。その情報源が意図的に報道機関を騙したり、あるいは当事者が思い違いをしている場合があるからです。この原則は、情報を扱う業種すべてに適用されているでしょう。そして、その中には政府機関も含まれます。

まして、1941年12月時点で日本海軍の暗号が解読されていなかったとなれば、余計に人の手立てによる情報収集に躍起となっていたはず。つまり、スパイが日本国内に放たれていたと考えて間違いない。

 

スポンサーリンク

今日、分かっているヒューミント

残念ながら、私が無能という事もあって(涙)、この記事を書いている時点で、当時のアメリカのヒューミント記録はつかめていません。ただ、それなりにインパクトのある材料は紹介できます。

1つめは、「昭和の戦争―ジャーナリストの証言〈8〉諜報戦争」(講談社)に書かれた、赤羽龍夫氏の証言です。この種の文献としては貴重でしょう。

昭和の戦争 ジャーナリストの証言

赤羽氏は、昭和16年に陸軍参謀本部による翻訳者の募集に応募し、採用。第18班(通称暗号班)に配属されます。具体的な仕事は、外国の無線暗号から解読された文章(当然外国語です)を日本語に訳すというもの。「恐ろしいところに来たと思ったものだ。こうした秘密業務に携わっていたら、あるいは召集は来ないかもしれないが、同時にもしかすると一生やめられないかもしれない。そう思うと暗い気持ちになった」(150ページ)。さもありなん、ですね。

赤羽氏によると、当時の日本陸軍の憲兵隊は、英国のE3Aと呼ばれる外交暗号書を3か月毎に盗み出していました。そこから発せられる中身は陸軍が把握していました訳です。

その中身が驚愕ものです。

東京の英国大使館から本国に打電するこのE3A暗号には御前会議の模様が詳しく報告されていた。御前会議の模様など重臣以外に知るはずがなかったから、これは重臣のだれかが側近にしゃべったことが漏れたに違いなかった。(159ページ)

つまり、日本の最上層部の動向(御前会議)は英国のスパイによって筒抜けで、更にそれも日本陸軍に筒抜けという構図です。

赤羽氏は、12月8日朝に開戦のラジオ発表を聞き、急きょ三宅坂の陸軍参謀本部に向かったそうです。そして、次のように回想しています。

その前日の七日だったか、それより一日前だったか、例のE3A暗号の解読から、中国と日本にあるイギリスの全領事館にあてて、「暗号および機密書類を焼却せよ」という指令が出ており、それはたぶんシンガポールあたりの発信と思われたが、間もなく各領事館から「焼却せり」という回答があった。そこで私は、十二月八日前後に何かあるとは予測していたものの、なにかするのは米英の方で、まさか日本が不意打ちをかけるとは思っていなかった。だが、考えてみると、イギリスがこのような指令を打電しているところをみると、米英も真珠湾を奇襲されるとは予測していなかったにせよ、八日頃にどこかを奇襲されるのは明確に予期していたことになる。(P159-160)

恐るべき情報収集能力であります。流石は007の国だけありますね。

 

スポンサーリンク

その英国が発した、11月26日未明の謎の電文

さて、ワタクシメにとって、長年引っかかっているのが、上記の赤羽氏の発言と共に、エドウィン・T・レートンの著書「太平洋戦争 暗号作戦―アメリカ太平洋艦隊情報参謀の証言〈上〉」「太平洋戦争 暗号作戦―アメリカ太平洋艦隊情報参謀の証言〈下〉」(TBSブリタニカ)。

太平洋戦争 暗号作戦―アメリカ太平洋艦隊情報参謀の証言

レイトンは、第二次世界大戦時にアメリカ海軍太平洋艦隊の情報参謀として、チェスター・ニミッツを補佐していました。主な任務の一つが、日本海軍の暗号解読にあったのは言うまでもありません。にもかかわらず、真珠湾奇襲を日本側に許してしまった事が自責の念となっていました。

そして没後の1985年に刊行された「And I Was There」という回想録が、本書(1987年邦訳)という訳です。

レイトンは、1941年の11月26日に注目しています。歴史に詳しい方なら、ワシントン時間のこの日午後に、当時のコーデル・ハル国務長官によるいわゆるハル・ノートが駐米日本大使らに突き付けられた事をご存じでしょう。12月1日までに外交交渉がまとまらなければ開戦という方針を打ち出していた日本側に、戦争の決意を固める一撃となりました。

レイトンは、ハルの行動が豹変とも言える行為であった事を指摘しています。それまでのハルは、同年11月22日には「日米は太平洋に領土的野心を持たず、日本は南部仏印から即時撤兵し、北部仏印の兵力を1941年7月26日時点の兵力に制限する。その兵力は25,000人以下とする 米国は在米日本資産の凍結を撤廃する。日本は在日米国資産の凍結を撤廃する オランダ、イギリス政府に対しても同様の処置をとるよう説得する 米国は日中和平解決を目的とした当事者間の交渉を非友好的な態度をもってみない この協定は臨時的なもので、3ヶ月を越えて有効としない」などを骨子とした暫定協定案(ウィキペディア日本語版より編集)を作り、「余りに宥和的だ」と、当時の中国の指導者である蒋介石に非難されていたぐらいです。

それがいきなりの中国及び仏印からの全面撤兵や日本が支援していた汪兆銘政権の否認などの強硬な論調になったのです。

ウィキペディアの日本語版にもありますが、豹変した理由については様々な関係者の回想が寄せられています。そして、レイトンは、ワシントン時間で前日の11月25日夜、ロンドンのアメリカ大使館から国務省に送られた訓電に注目しています。

同署の上巻284ページから285ページにかけて、次のような記述があるからです。

日本の裏切りの知らせがチャーチルから直接大統領に届けられていたことを示すもう一つの証拠がある。蒋介石の食の細さについて言及したとみられる、チャーチルの電報を入れたロンドンの米大使館の封筒の表には「極秘」と書かれていた。それは配達時間の遅さ―午前三時頃―を謝っていたが、われわれがいま見る限りでは、真夜中に米大使館員を起こさねばならないような内容は何も含まれていなかった。翌朝まで待てたし、それでもワシントンで十一月二十六日の勤務が始まる時刻には届いていたはずだ。

真夜中の3時に、わざわざ打電されていたのです。ロンドンとワシントンの時差は5時間。1941年11月26日午前3時(グリニッジ標準時)に打電された電報なら、ワシントン時間の25日午後10時に着いている筈なのです。

したがってこうした状況は、あの晩ロンドンとワシントンで別の情報交換―「食が細い」電報がうまい具合に隠れミノになった別の情報―があったのを示している。解禁になった記録相互間の矛盾から考えて特に重要なのは、首相の秘密記録の中に収められた日本のあの情報報告が「七五年間公開せず」とされていることだ。その公開を求める要請が繰り返し行われ、ときには特権的なアクセスが要請されたが、政府は一貫して「いま公開するのは国益を損なう」との理由で拒否してきた。
歴史上の記録の重要な矛盾を解決するかもしれない文書公開を、あれから四〇年たった現在イギリス政府が依然として拒む理由は何だろうか。その文書が公開されないかぎり、そこには十一月二十六日朝ホワイトハウスに届いた日本の「裏切り」についてなんらかの別の警告を含んでいるのではないか、と推測されるのである。

意味深な書きようです。この蒋介石の「食の細さ」について触れている文献があります。昭和の戦争―ジャーナリストの証言〈2〉真珠湾攻撃(講談社刊)。寄せているのは、新名丈夫(故人)。戦時中は毎日新聞の海軍担当記者として活躍し、所謂「竹槍事件」を引き起こした人として知られています。以下は本人の筆。

意見を申し出るにさいして「イギリスはアメリカを戦争に引きずりこもうとしている」と思われたくなかった。チャーチルのルーズベルト宛電報(十一月二十六日付)はつぎのとおりであった。
「…いうまでもなく、この件に当るのはあなたでありますし、われわれはもう一つの戦争は決して欲しません。ただ一つのことが私の心配です。蒋介石をどう思いますか。あわれな食事があてがわれているではありませんか。私どもの心配は中国についてであります。もしかれらが崩壊すると、われわれの共同危険は恐ろしく大きくなるでありましょう。中国のためという米国の考えが、あなたの行為を決定するであろうと私どもは信じています。日本人はきわめて自信がないように私どもは感じています」
チャーチルの電報が、発信当日の夜明けワシントンにとどいたとき、国務省ではただちにハル以下極東専門家が対日回答案を再検討の結果、この暫定協定案を取り消すことになった。(126ページ)

この電文はレイトンの指摘しているものと同じでしょう(新名は発信当日の夜明けとしていますが)。文面から拝察するに、わざわざ夜中の3時に送信する内容では無いし、この文書だけを以てアメリカ政府が態度を激変させたとも考えづらい。隠れ蓑になる符牒か、これとは別に相前後して決定的な情報がロンドンからワシントンに送信されたのではないか? ワタクシメは、そう推測しております。

 

その時、日本では何が起きていたか?

さて、このロンドン時間の11月26日午前3時というのは、興味深い意味合いがあるように思えます。こちらのサイトをご覧ください。

「ロンドンの2016年11月26日(土) 03:00は 東京では2016年11月26日(土) 12:00です。 時差は 9時間 です」

サイト側の設定で、1941年まで遡っての検索が出来ませんでしたが、第二次世界大戦後に国際的な暦の取り決めが変わったとも聞きませんので、当時もロンドン時間の午前3時は日本時間の正午と考えて差支えないでしょう。

この26日の午前8時に、南雲機動部隊が単冠湾からハワイに向かっているのです。

防衛庁防衛研修所戦史室によるハワイ作戦 (1967年) (戦史叢書)には、次の記述があります。

機動部隊は、木更津航空隊陸攻の前路哨戒を受けながら、十一月二十六日朝、片道三、五〇〇里に及ぶ遠征の途についた。その進出状況は筆者が各種資料を検討した結果、日を追って記述すれば次のとおりである。
十一月二十六日(木) 曇
すべての準備を終わった機動部隊は、いよいよ故国をあとにして古今未曾有の大奇襲作戦の決死行の途につくこととなった。
暗雲立ち込める中を〇六〇〇警戒線の抜錨を先頭に、第八戦隊、哨戒隊、空母部隊の順に逐次単冠湾を出港した。しかし、「赤城」は試運転時、スクリューにワイヤーを巻きつけ、予定の〇七〇〇に出港できず、潜水夫を入れてこれを取り除くため遅れて、ようやく〇八〇〇に出港できた。そのため機動部隊の進発は一時間遅れるに至った。この事故は晴れの門出にとって幸先の良いものではなかった。(265ページ)

これらは偶然なのか? そして後編に続く!

整理します。

1、当時の英国は、日本のトップクラスから情報を盗み出していた。それが誰かは不明である。

2、その英国が、日米関係がきな臭くなっていた1941年11月26日午前3時に、ロンドン経由でチャーチル首相による書簡電文を送った。電文の内容は日本でも明らかになっているが、わざわざ真夜中に送らねばならないほどの内容では無い。

3、しかし、この電文のせいかどうかは分からないが、アメリカ政府は宥和的と非難されていた対日姿勢を一変させ、いわゆるハル・ノートの手交となった。

4、そして、この謎めいた電文と前後する対米関係の当時の歴史文書を、英国政府は長らくに渡り公開を拒否してきた。

5、また、時系列を見ると、南雲機動部隊の出撃→チャーチルからワシントンへの電文→ハル・ノートという流れになる。

これらは偶然なのか? そして、皆さんご計算ください。1941年に75年を足したら幾らでしょう? 

そう、先月の11月26日前後に関連文書が米英で解禁されている公算が高いのです。

スポンサーリンク

続きは次ページへ

 

次のページへ >





1位長篠の戦い 注目すべきは…


わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?


2位 西郷隆盛49年の生涯!


3位 史実の真田幸村とは?


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか あらすじ&感想レビュー

-歴史・戦国NEWS, WWⅡ

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.