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トーマス・エドワード・ロレンス/wikipediaより引用

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アメリカ 歴史・戦国NEWS

アラビアのロレンスを有名にした記者ローウェル・トーマス 実業家としてもホームラン連発やん!

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いわゆるアラビアのロレンスは、勝手に有名になっていった訳ではありません。
インターネットのなかった時代に、身の危険も顧みずに戦場に赴き、取材して報じた記者がいればこその結果でした。

実際、映画「アラビアのロレンス」でもアーサー・ケネディ扮するジャクソン・ベントリーという記者がロレンスに取材する場面がありましたよね。ロレンスの態度に疑問を抱き、葬儀後に悪口を言って英国陸軍の軍医に絡まれるシーンがあったのもご記憶かと。

そんな記者の実像を、コロラド公共放送が特集しています(2017年8月14日付け)。

記者がコロラドで育ち、このほどニューヨーク大学のミッチェル・スティーブンス教授による伝記が出版されたという事情もあって、注目したようです。

The Voice of America表紙/amazonより引用

 

商才に恵まれていたが、起業家では無く記者の道へ

記者の名前はローウェル・トーマス
1892年4月6日、オハイオ州のウッディントンという地で生まれました。ロレンスより4歳年下となりますね。

その後、コロラド州のビクターで少年時代を過ごします。
この街はゴールド・ラッシュで栄えたものの、気候的には厳しく、かつ土地の人もヤマっ気がある人が多かった模様。それらがトーマスの人生に影響を与えたようです。

というのも、感化されたのか、一山当てようと思ったらしく、ビクターにレンガ造りのオペラ座を建築したからです。お父さんはお医者さん、お母さんは教師だったそうですから、育ちはお堅い家庭だったと想像されます。

完成させるには苦労もあったようですが、これが大当たり。今日で言う多目的ホールとしても使われ、1000ドル近くを手に入れたのです。
100年以上前の1000ドルですから、馬鹿にはなりませんよね。なお、この時まだ10代だったそうですから、元祖ホリエモンって感じ?

そのまま起業家として成功していた人生もあったかもしれませんが、若かりしトーマスは、金鉱の鉱夫が織りなす様々な人生模様に注目。地元のビクター・レコード紙を読むようになります。

戦場のロレンス(左)とトーマス/コロラド公共放送より引用

 

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19歳での決断「自分も記者になろう」

時代にも恵まれていました。

インターネットどころか、ラジオもテレビも存在しなかった20世紀初頭は、新聞社にとって黄金時代だったのです。

日露戦争の講和を仲介したセオドア・ルーズベルトなど、アメリカの歴史に名を刻む大統領と記者が丁丁発止を紙面で繰り広げていました。

そんな中、1911年にレコード紙が地元ニュースだけでなく、首都ワシントンや海外情勢などを特集するようになります。
それまでの「結婚2週間目の新妻が自殺」「落盤事故発生」などの記事ばかりを読んでいたトーマスの関心を引くようになります。

そして決意したのが「自分も記者になろう」。

19歳の齢でした。

めでたく採用され、編集職に就きます。
そして、これが長い長いジャーナリスト人生の始まりとなりました。

 

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用意周到、抜け目なくローコストで名声を得る

やがて、記者として頭角を表したローウェルは、またしても?ヤマっ気が湧き上がったようです。以下、ウィキペディア英語版も参考にしながら、生涯を追ってみましょう。

まず目指したのが、都会での取材。シカゴ・ジャーナルに転職します。同紙では1914年まで働きます。
そして、この年に第一次世界大戦が勃発。直ちに戦地へ!…という訳では無く、一旦プリンストン大学で学び直し、修辞学で学位を取ります。用意周到な人ですね。

着眼点の冴えは相変わらずで、無料で鉄道を利用する代わりに関連記事を書くという、今で言うパブ取材をアラスカで行って、記者としての名声をしっかり地固めします。そればかりでは無く、当時ブームになりつつあった映画に着目。一般人が簡単に旅行できなかった時代、アメリカ人にとって遠隔の地であったアラスカを旅行映画として紹介しています。小説にもしたそうですから、凄いですね〜。この時点で20代前半ですから、いやはやって感じ。

やがて、ウィルソン大統領が第一次世界大戦の前線取材団を募集しているのを知り、応募します。大統領がプリンストン大学の学長を勤めていた事があり、その繋がりをアピールしたらしく(その辺も上手な人だったようです)、採用。もっとも、この取材団自体が余り人気がなく、応募者が少なかったという事情もあったようですが…。

この時、本人には脳裏にまたしてもグッド・アイディアが宿ります。「戦場の様子をフィルムに収めよう」。そう、今で言うビジュアル・ジャーナリズムの雛形を着想したのですね。

で、試算してみたら7万5000ドルかかるとなりました。今の価格にしても、日本円で約800万円ですし、当時なら目の玉が飛び出る価格。「アメリカ政府による視察なのだから」と予算要求したものの、高額すぎて却下されました。ここでめげてもおかしくない所ですが、本人は古巣のシカゴに戻り、記者時代にツテがあったらしい複数の食肉業者から出資を取り付けています。

「なぁ、首を縦に振ってくれないと、書いて来なかった色んな事が表沙汰になりまっせー」というのがキラー・トークだったそうです。危ない事してはりますね(汗)。

 

「ここ、映像素材として受けそうにないし」と即断の結果が

ハイ、察しの良い皆様ならお気づきでしょう。そのフィルムを回した先が、あのロレンスだったのですね。キラー・トークした後で、キラー・コンテンツを見つけ出したのです。

当初赴いたのは、激闘続く西部戦線。カメラを回していたのはハリー・チェイスという男でしたが、トーマス本人は決断を下します。

「アカン、塹壕戦は映像素材としてウケそうにないわ」

で、イタリアに行き、ここで英国陸軍のアレンビー将軍によるオスマン・トルコ帝国のパレスチナ遠征計画を知ります。記者としても早耳を持っていたのでしょうね。

交渉力を遺憾なく発揮し、取材許可を取り付けます。そして英国外務省の職員ともどもエルサレムに趣き、出会ったのがロレンスでした。

この時、ロレンスはトルコに反乱するパレスチナ人に対し月額20万ポンドを渡すなど、後に有名となる軍事的才能を発揮し始めていました。そこがトーマスの目に留まった。

「あ、この人いけるで」

そして、砂漠でのゲリラ戦の模様を写真や映像に収め、かつインタビュー記事を取り付けます。それが世界に配信され「アラビアのロレンス」が誕生したのでした。

 

数週間の取材結果で、延々と稼ぎまくる

ロレンスへの取材そのものは数週間だったのですが、凄腕なのはここから。

1919年にアメリカに帰国すると、あちこちで講演活動をやりまくったのです。しかも、ただ話すだけではなく、アラブ風のベールをまとった女性が映写技師となり、砂漠でのロレンスの様子を上映しながらの講演。パワーポイントを使ったプレゼンの元祖って感じですね。

これが大ウケ。アメリカ国内だけでなく、海外でも講演しまくったそうです。

その行き先の一つがロンドン。半年間行ったそうですが、ここではピラミッドのセットを前に、アメリカと同じくベールなどを着用させた女性が、今度は映写だけでなく踊り付きまでする中での講演だったそうです。こうなると、もう一種の興行ですね(笑)。

かくして、稼ぎに稼いで、金額150万ドルにも達していたそうです。

なお、英国滞在中にロレンスと再会し、シャイな性格の本人を説き伏せ、チェースともどもスリー・ショットを撮っています。もっとも、後に明らかにしたところでは、ロレンスは講演を快く思っていなかったのですって。そればかりでは無く「無作法な奴だ。許せない」とまで周囲に話していたそうです。

取材先との人間関係では問題ありという感じでしょうか。もっとも、ロレンスの兄弟とは良好な関係を築き上げ、本人が不慮の死を遂げた際には弔文記事の寄稿を許しています。

 

「今度は映画だ! ラジオだ! テレビだ!」と次々に新境地

その後も、ジャーナリストとビジネスパーソンの両方で才能を発揮しまくります。

1920年代になると、雑誌編集者として活躍しながら20世紀フォックスのニュース映画に着目し、ナレーターを買って出ます。どうも、映画を上映しながらレコードか何かで音声を再生したらしい。第二次世界大戦後には、シネラマという大型スクリーンの迫力に可能性を見出し、ビジネスを始めます。この時にタッグを組んだ相手の1人が、後にエリザベス・テーラーの夫となるマイケル・トッドでした。

しかも、それだけじゃあなかった。今度は産声上げて間もないラジオの世界に身を投じます。1930年代に、最初はCBSラジオで夜のニュースのアナウンサーとなり、コメンテーターも兼務。その後NBCラジオに転籍し、両局を行ったり来たりする生活を続けます。この間、税金対策を兼ねて独立系の制作プロダクションを起ち上げ、CBSに納品したりしています。

更には、1939年に最初のテレビ放送の司会者にもなっています。これが当たって1940年2月に放送開始したNBCテレビで番組を任され、同年夏にフィラデルフィアで行われた共和党の全国大会を生中継しています。しかも、本人が陣頭指揮だったそうです。

着眼点は良くても、ビジネスとして成功させる人って稀ですよね。しかるに、この人はホームラン連発やん! ただただ脱帽。

1930年にはNBCラジオ・ネットワークの司会者に/コロラド公共放送より引用

しかも、こうした活躍は戦後も長く続き、最後の放送出演は1976年5月14日だったとの事です。
時代はベトナム戦争末期。ロレンスが世を去って40年が経っていた格好です。

亡くなられたのは1981年。心臓発作で、享年89でしたから、長命の方だったのですね。
後もう少し生きていたら、インターネットの到来を見ただろうに。そうなったら、どんな風に活用を考えたんだろうな、一儲けして成功してたのでは、などと思ってしまいました。

ロレンスとは別の意味で20世紀の歴史に残る人だったのですね。

落ちこぼれの記者の成れの果てとして、敬意を表したい。

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