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我が子房・荀彧と青州兵を得る
ヘンリー王:
かつては、お前を兄弟として愛していたぞ、ジョン
だが今は、我が魂として尊敬している
『ヘンリー四世 第一部』第五幕第四場
さて、董卓が世を去る前年。
冀州を支配した袁紹の元で、ある一人の人物が不満を募らせていました。
清流派名家に誕生し、潁川士大夫グループでも若きホープであった荀彧。
兵乱を避けて冀州で民を救うべく活動していたわけです。
袁紹としましては、ぜひとも厚遇したい人材です。荀彧の実弟・荀諶はじめ、多くの清流派人材が身を寄せていました。
しかし荀彧は彼を見限り、曹操の元へ馳せ参じたのです。
ポスト袁紹を探した荀彧は、曹操だと狙いを定めたのです。
ここで思い出していただきたいのが、何顒の評価です。
彼は両者を高く評価していました。こうした評価も関係しているのでしょう。
そんな荀彧を得て、曹操は大喜びをするのです。
「きみこそ我が子房(劉邦の右腕軍師である張良の字)だ!」
荀彧本人の能力もさることながら、彼には人脈がありました。
曹操政権に馳せ参じた荀攸、郭嘉、司馬懿、鍾繇らは、彼の推薦あってのものです。
荀彧だけではなく、程昱(141ー220)の参加もこの時期です。
ただ、程昱は荀彧のような理想主義者というよりも、容赦ないリアリストとしての側面を感じさせます。この性格の差が、運命としてのちに発揮されるのです。
曹操も、実は袁紹の元にいることが耐え難かった。
そういう状況です。
曹操は賊討伐の許可を得て、各地を戦い抜きます。
・黒山賊
・公孫瓚に敗れ、兗州を目指す黄巾賊
兗州刺史・劉岱が敗死してしまい、チャンスが到来します。
この開いたポストを曹操が得れば躍進につながるのです。朝廷が混乱している中、辞令を待たずに名乗ることができる乱世でもあります。
【乱世の姦雄】とはなかなかおもしろい言葉ではありますが、乱世はそもそも正攻法では生き残れないのです。
そのちょっとトリッキーなルートが、曹操にとって虎の子となる【青州兵】獲得手段です。
実は、これがなかなか難しい問題です。
【青州兵】とは、曹操が追い詰めて降伏させた黄巾賊兵士30万とされています。
しかも、非戦闘員男女100万もついていたというのですから、なかなか凄まじいものがあるのですが。
ただ、繰り返しますがこの時代は人口激減を迎えております。この数をそのまま信じることには無理があるのです。
兵士ではなく、非戦闘員までいるということ。これも厄介な問題です。
非戦闘員を養うことは、軍隊として適切であるのか?
これは古今東西、なかなかややこしい話ではあります。
非戦闘員の食料や行軍までカバーすることは、非効率的にも思えます。
ただ、独身の兵士だけでは人口増につながるはずもない。
兵士の士気を高め、支え、農作業をさせる、妻を含めた非戦闘員も養った方が、効率的といえばそうなのです。
こうしたシステムは、魏・蜀・呉で採用された【兵戸制】に連なるものとなります。
そしてここで考えたいこと。
曹操は、軍事制度改革をも伴う兵団を手に入れたということです。
ただし、その手段がはっきりしません。
曹操と黄巾賊は激闘を繰り広げていたとはわかりますが、どうにもプロレス臭が漂っています。
当時の書状は、黄巾族が曹操に親近感を見せているように思えなくもないのです。
意訳ではありますが、歩み寄る姿勢があるのです。
「曹操よ、俺たちは戦うべきか? お前にはかつて邪教の祠を徹底して破壊したソウルがある! わかっているだろ? 黄老のイエローロードをな! その運命には逆らえないッ!」
青州の黄巾賊と曹操の間には、謎のソウルがあったようです。
曹操は、青州兵に気遣っていたことが、記録から伺えます。
軍令違反を犯した青州兵を于禁が討ち果たした際、于禁は早々に釈明しているのです。
この場合、軍令違反をした側を処罰した于禁側の言い分が納得できるものでして、曹操にしては【青州兵への態度がぬるい】ことは確かなのです。
曹操の死後、そのことははっきりします。
曹操は、乱世なのだから死後も部署を離れないよう遺言を残していました。
それでも、青州兵は無断で離脱し、止めようがなかったのです。
曹操と青州兵の間にあった密約とは?
その謎が解かれる日は、訪れるのでしょうか。
ともあれ、正攻法でなかったことは推察できます。
荀彧にせよ。青州兵にせよ。曹操の中に、改革への道しるべをみていたことも、わかるのです。
しかし、曹操人生最大の汚点が、このあと待ち受けていたのでした。
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